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2013年4月28日日曜日

仮に2万人の人口の町の半数が共通ポイントカードを持ったとしたら・・・

ポイントカードの仕組みについては、かなり深く学習した時期がありまして、実際にそのような仕組みに、市民活動の中で関わってもいます。それで、ポイントの仕組みは一般にはわかりづらいところもあるので、今回、図書館の運営を民間会社が受託したことにともない、この全国共通のポイントカードを運営する会社が会員証に加盟店共通ポイントカードを導入したということについて、私がわかる範囲で少し仕組みを説明してみたいと思いまして、1年以上もほっぽらかしていたブログを引っ張り出すに至っております。

さて、ポイントカードですが、おおきく2種類あり、ひとつは、一社(一店舗)で使うポイントカードです。これは基本的に、スタンプカードなどと仕組みとしてそれほど違わないと思います。これが電子化されたものと考えていいと思います。

もうひとつが、今回、テーマとなっている加盟店共通のポイントカードです。このような共通ポイントカードの興味深いところは、資本的にはまったく繋がりのない異なる組織が、共通ポイントカードというプラットフォームを介して、顧客情報と、収益の一部を共有する、という点にあります。

そもそもポイントカードのシステムは、顧客が支払った販売代金の中から、ポイント分として一部を積み立て、それを顧客の求めに応じて(つまり「ポイント使います」という顧客の反応に応えて)、引き出して払い戻す、という仕組みに介在することによって、それを仲介するポイント会社に、売り上げの一部が手数料として入る、という仕組みです。

さて、これを前提として、わかりやすくするために、人口2万人の町の半数、つまり1万人が共通ポイントカードを持ち、この「町の半数が持っているポイントカード」というインセンティブによってこの町の小売業がすべて、このポイントカードを導入した、と、仮定で考えてみます。

この1万人が1年間にこの町の加盟店全体で消費する金額を、仮に平均10万円(月に1万円足らず)だとします。すると、単純に、10億が、この共通ポイントカードをプラットフォームとして、この小さな町で消費されたということになります。

さて、この消費にともない、加盟店はそのポイントカードのプラットフォームとなっている会社に対して手数料を支払います。これはクレジットカードと基本的に同じ仕組みで、手数料も、クレジットカードとおおむね同じだと考えていいと思います。内部事情は知りませんが、おおむね3~5パーセント以内の手数料がカード会社に支払われるというのが相場だと思います。

そうしますと、この小さな町での町民の10億の消費にともない、このポイントカード会社に支払われる手数料は、仮にそれを3%だと仮定しますと、 3千万円、ということになります。

ところで、このような加盟店共通ポイントビジネスのキモは、いかに多くの加盟店を獲得しているかという点にあるのですが、その加盟のモチベーションのもとになるのは、もちろん、顧客数であります。仮にこの小さな町の人口の半数を制覇できたとしますと、それは人口の中には子どもも高齢者もいるわけですから、消費に活発な世代を、ほぼ制圧したといってもいいすぎではないと思われます。すると、その町の消費を、加盟店で独占しよう、という動きに、当然、なってきます。加盟店同士でタッグを組み、非加盟店を排除することが可能になるわけですので、ある程度まで制圧されていきますと、これは逆に、入らないとやばい、という雰囲気になるということも、考えられると思います。

そうしますと、徐々に、消費者の消費に占めるこのポイントカード加盟店全体における消費割合というのが増えていくことになるのです。ポイントカードとクレジットカードは連携することが可能なので、すでにクレジットカードで公共料金まで支払うことができるようになってきている状況の中で、 下手をすると、8割とか9割とか、場合によってはそれ以上ということになっても、まったく不思議ではありません。

そうすると、最初は10万だった加盟店での消費が100万になり、200万になっていく。右肩上がりに増えていきます。

さて、先程は人口2万人の町の5割という話でした。
私が済む宇都宮市は、人口が約51万人です。 ということは、×ことの25.5倍。

みなさんの済む地域の人口はどれくらいでしょう。一度、計算してみると面白いかもしれません。

もっとも、地域ごとに分けて考えるのもすでに無意味なのかもしれません。

なぜなら、共通ポイントカードのキモは、まさにそれが地域や資本を越えて全国どこでも共有できるという点にあるのですから。



2012年4月12日木曜日

ドイツWDRのQuarks&co によるフクシマレポート(翻訳途中で未完)

以下、ドイツWDRのQuarks&co によるフクシマレポート Zukunft der Ruinen von Fukushima /Quarks & co

翻訳途中です。誰か助けてくださらないでしょうか(^^; 




ドイツ語使わなくなってからもう長いのでぜんぜんスピードも翻訳の質も追いつきません。根気も続かない・・・なんとかがんばったのですが、とにかくもう再稼動しちゃいそうなので、途中でいいからアップしちゃえ、という見切りです。間に合わなくてすみません。

あと、一応、放送局には翻訳掲載の許可くださいというメールしたのですが、まだお返事もらっていません。ですので、もしかしたらこの投稿は削除しなければいけなくなるかもしれません。

あてはまる日本語を知らなかったりよくわからないところは飛ばしています。
また、中略もしていますので、以下、未完だという前提でお読みください。

とくに、後半のチェルノブイリとの比較をどうしても多くの方に読んでいただきたかったのです。
福島第一原発の爆発事故は、この規模の事故としては奇跡的に被害が少なくて済んでいるということを研究者がいっていて、これは、再稼動に反対する論拠として非常に重要であると思いました。

とにかくまずは以下ざっとお読みいただけましたらありがたいです。
校正などもしていないので直訳で読みにくいのですが、そのへん想像でおぎなってください(^^;
前半は当日現場にいたドイツの技術者による証言、後半は研究者によるチェルノブイリとの比較です。放送では、この後、テプコの今後の構想などについても図解していて、それも非常にわかりやすいので追って訳したいと思います。

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WDRのQuarks&co  Zukunft der Ruinen von Fukushima /Quarks & co

 
2011311日、福島の原子力発電所はメルトダウンを始めました。
正確な情報は得るのが難しい。当時、なにが起きていたのか、そしてその後の12ヶ月に何があったのかをQuarks&Co がご報告します。


*************

1年前に福島で原発事故が起きました。私たちは日本にいって破壊された原発の現状を把握したいと思い、そのために努力してきたのですが、いまだ現場敷地に自由に立ち入ることができません。情報写真はテプコにコントロールされています。

しかし他の方法もあります。この腕時計は録画ができます。日本のジャーナリスト スズキ トモヒコ氏が、このような腕時計をもって作業員として現場に入り撮影しました。

このようなバスで毎日、原発敷地内の巨大な汚染水のタンクのそばを通って現場に入ります。作業後には完全防備のマスク(このようなマスクは非常に呼吸が困難だそうです)、また防護服のなかは非常に暑い。作業の後に放射性物質が服についているかどうかを調べます。

テプコは独立系(フリー)の科学者やジャーナリストが立ち入るのを嫌います。情報が漏れるのを恐れているのでしょうか。そこで私たちは様々な情報を拾い集めてつなぎあわせ、再構築しました。

<当日>
それはいつものルーチンな訪問だった。ドイツの技術者(material Pruefer)グループは日本の同僚たちをサポートするために福島第一原子力発電所にいた。2011311日は、福島第一原子力発電所の4号機で作業中だった。そのとき、揺れが来た。

「幸運なことに私たちはそのときに建屋内にいた。危険なのではないか。いや違う。巨大な重機が揺れを吸収して大きく揺れ動いていた。それらがどれほど柔軟にできているかを私たちは目の当たりにした。」
もちろん耐震性だ。しかしそれはマグニチュード9に耐えうるほどではなかったのだ。

「みんなが何かにつかまりながら周囲を見回していた。それはたいへん長く感じられた。」

それでも原子力発電所はこの地震に耐えたのだ。

地震の時には原発は自動停止する。このシステムは東海岸の多くの機器で採用されている。それで地震の後に電源ネットワークが壊れた。
地震の後に彼らは原発建屋を後にした。スピーカーから津波の警告が放送された。
「私は、そこで海全体が引いていくのを見た。数メートルというスケールではない。見渡す限り一面の海が退いていったのだ。港からは船も一緒に引いていく。それを見てそこに立って、こんなことはありえない、これからいったい何が起きるのかと思った。そしてちょうど海が引いていったのと同じような速さで、それはまた戻ってきた。」
「とんでもない量の水がただそこにあった。押し寄せた。港から引いていった船がすごいスピードで戻されてきた。スペクタクルとしかいいようがない。」

原発建屋はなんとか持ちこたえた。すべての原発は緊急電力モードに入っていた。そのような重要な機器はいつも複数つくられる。機器は最高6メートルの波を免れるはずだった。しかし15メートルではない。津波はすべての緊急電源を破壊した。ただ5号機・6号機だけは少しだけ高いところにつくられていたので波を免れた。技術者はここでだけは緊急電源を確保できていた。

1号機から4号機ではすでにバッテリーだけで動いていた。計測器は壊れた。従業員たちは盲目飛行をせざるをえなくなった。そして緊急バッテリーが次々に機能を停止したことに彼らが気付くのは、あまりにも遅すぎたのだ。緊急バッテリーが空になっていた。

停止したリアクターも熱を発する。10000tocksieder 冷却水が蒸発する。格納機内の圧力がマックスの2倍に上昇する。格納容器が破裂しそうになる。技術者たちはベントを決断する。上記が建て屋内に充満した。上記には放射性ヨードとセシウムが含まれていた。そして酸素も。危険な混合だ。

水素爆発が1号機で起こり、間もなく3号機でも起こった。そして放射性物質を周囲に拡散した。

何が壊れているのかすらわからなかった。1号機から4号機は破壊されていた。周辺は廃墟と化しており、原発につながる道は、津波で通れなかった。


日本の技術者たちは今、できるだけ早く対応しなければならなかった。
「メインの建物、おそらく30メートル×30メートルの大きなホールに3倍の人が集まっていた。信じがたいほど静かだった。Der Gereuchpiegel und so vielen in Klassenzimmer, **** 彼らはあちこちチェックしては何が起きたのかなどを話したりしていた。

冷却のためにはより多くの水が必要だった。ポンプで水を供給した。しかし放射性物質のために長時間は滞在できない。だからヘリコプターでの散水が試みられた。しかし、その方法では冷却はできなかった。

彼らは戻ってこなければならなかった。なぜなら、メルトダウンはなんとしても防がなければならなかったからだ。格納容器の上から水が注ぎ込まれ、注ぎ込まれた水は汚染されて下からまた出てきて地下に満ちた。労働者にとっては危険なエリアだ。

労働者の二人のブーツに汚染水が流れ込んだ。その肌はまるでやけどをしているようだった。この症状は、すでにチェルノブイリでも知られている。

住民は避難所に移動した。ドイツからの技術者たちと同様に。

3人の小さい子どもを連れた若い母親と一緒になった。私たちは10人のドイツ人。食べ物はない。そしてその若い母親は、私たちに1パックのクッキーをくれた。彼ら自身がなにひとつとしてもっていなかった。子どもも3人いる。それなのに、私たちにクッキーをくれた。」

その家族が彼らに携帯電話を貸してくれたので、彼らは帰国することができたのだ。

日本の技術者たちは残って、その後の数カ月に渡って冷却を続けた。そして今、破壊された廃墟の安全確保がテーマだ。それは困難で長い道のりだ。

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(コメンテーター)

この間、私たちは福島でメルトダウンが起きていることを知ることになった。核燃料は格納容器を突き抜けセメント層に食い込んでいる。しかし地下水はかろうじてわずかなセメントの残りで守られているようだ。少なくとも事業者(テプコ)はそう説明している。


私たちは、今回のこの事故と1986年のチェルノブイリの事故に多くの共通点をみることができる。
これはチェルノブイリの画像だ。破壊された建屋。同じように福島でもヘリコプターを使った水冷が試みられた。そして、ちょうどチェルノブイリで労働者たちが建て屋に入って行ったように福島でも同じことが行われている。チェルノブイリでは何千人もの住民が退避させられた。同様の絵が福島で25年後にも繰り返された。
ここから私たちが知りうるのは、どの時代でどの場所で起ころうとも、原発事故では同じようなシナリオにしたがってことが運ぶということだ。それは情報の隠匿においても同様だ。
ロシアでは、多くの詳細情報が、ソビエト連邦の崩壊後にはじめて公表された。たとえばここにある画像。若い兵士たちが原発の後片付けに狩りだされた。何千人もの若い兵士たちが90秒で一生に許容しうる分の放射性物質を超える環境で天上の瓦礫の片付けなどを命じられた。チェルノブイリでもロボットが使われた。しかし当時は高い放射能に耐える技術がまだなかった。そして今また日本でもロボットが使われている。今回はしかし、成功している。

事故のあと、従業員は破壊された施設の後始末と敷地の除染に追われている。彼らは施設外で宿泊する。施設の一部はロボット以外は立ち入ることができないほどに放射線量が高い。このロボットたちがもっとも危険な作業を福島で行っている。操作するのは、施設の内部を熟知した従業員たちだ。そのうちの一人が、ブログで情報を発信している。S.H氏。タイトルは「言いたい放題やりたい放題」である。

「言いたい放題、やりたい放題。426日。我々の今日の課題はロボットで瓦礫を片付けること。建て屋をみる。これが何だったのかすらもう見分けようがない。まだ建っているのが不思議なくらいだ。

S.H氏はロボット操作をする前に研修を受けなければならなかった。

「私たちは放射線量が比較的少ないエリアで訓練を受けた。それでも完全防備しなければならない。まるで霧の中にいるように感じられた。ロボットの操作はちょうどプレーステーションのようだった。」

いまだに、燃料棒の冷却は最重要課題だ。汚染水は常に地下に流れ出てくる。それを除去するのが彼らの重要な仕事だ。

truemmer

(中略・・・というかまだやってません・・・)





テプコの発表によると、250ミリシーベルト・年以上の被曝をした従業員は6人だという。しかし、いったいそれが真実だとどうしてわかるのだろう。もしかしたらそれはもっと多いのかもしれない。そしていったいどれくらいの放射性物質が拡散されたのであろうか。多くの日本人がすでに政府の計測発表を信じていない。彼らはむしろ独立した検証結果を求めているのだ。

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アルゼンチンのサバンナの真ん中に高感度の計測ステーションがある。人間には見ることも匂うことも感じることもできない物質を感知する。放射性物質だ。もし通常より多い放射性物質が環境に放出されるとこのフィルターが感知する。仮に南アメリカで非公開で核武器実験が行われると、このフィルターにアイソトープが表示されて危険なセシウム137を検知する。そしてそれは原発事故でも同様だ。

全世界で80あるこの核計測ネットワークは、福島の事故を分析するのにたいへん役立った。
ノルウェーのLuftforschungsinstitut Metheologen 研究者Andreas Stohl とその同僚は、ふだんは雲の広がりを天候データから導き出している。しかしそれは、放射性物質を含む雲にも同様にできるのだ。

福島の事故の後、このオーストリア人の研究者は最初の予測を行った。
「事故後、まず多くの問い合わせがあった。
 *******
どれくらいの核物質が拡散したのか。
どの国が一番、影響を受けるのか。
そしてこの事故はチェルノブイリと比較できるのか。


ここウィーンに世界中のデータが集められた。ここでは国際的な環境団体が独立して研究を行っている。目的は核実験の把握だ。Andreas Stohl はこのネットワークのデータにたどり着いた。

まず最初に彼はこの核事故の解析を行った。
彼の計算は、311日の事故について、新たな視点をもたらした。

事故後、最初の3日間は、事実上ほぼすべての核物質が大洋に流れた。
この時点では近隣住民のみが被ばくした。
この時点であればまだほかのほぼ全ての国民が被ばくを避けられていた。
彼らからはわずかな核反応しか検知されていなかった。
しかし、それから間もなくして状況は変わる。
4日目に季節風によって風向きが変わり、核物質を含んだ雲は日本列島を覆う。この瞬間に、もっと多くの核物質が放出されている。立ち入り禁止区域以外にも多くのエリアが何年にも渡って居住できないほどに汚染された。

9日目に風はまた向きを変える。核物質を含んだ雲が東京を覆う。350万人が住む大都市だ。

「幸運なことに、もっとも濃い核物質が東京に到達した時、東京で雨が降らなかった。もし降っていたらもっと深刻な災害になっていたはずだ。」

しかし放射性物質を含んだ雨が他の地域に降った。3日間に渡って日本は汚染され続けた。

彼は福島の事故をチェルノブイリと比較する作業を行った。

福島では、25年前にチェルノブイリの半分以下のセシウム137が検知されている。

「チェルノブイリと比較すると、風向きがどうあろうと大陸ではそれが陸地に落ちる。
福島の原発は海岸にあったために多くの放射性物質が海に流れた。」

汚染状況はこうだ。79%のセシウムが海に流れた。
そこで海水によって薄められ、比較的無害になった。日本列島には19%が流れた。そして残りの2パーセントがアメリカ大陸へ。他の地域は汚染を免れた。

*********

福島とチェルノブイリを比較してみよう。ここに縮尺の同じふたつの地図がある。まず核物質セシウム137をチェルノブイでは、このように汚染地域が広大であることがわかる。ウクライナ、白ロシア、ロシア。日本では、多くの放射性物質が海に移動している。
日本の汚染状況をさらに詳しく見ると、放射性物質は均一に拡散しているわけではなく、風向きによって特定の地域に集中している。これら地域が汚染されたのだ。



さて、福島はこれからどうなるのか。
テプコのプランはこうだ。

1号機をはじめとした他の崩壊した建て屋は今後、覆われなければならない。

(続く・・・)

2012年1月2日月曜日

何かを変えるということ

新しい年になりました。はたして今年が変化の年になるのかどうか。いまだ事故が収束しない中で新年を迎えた私たちが、これから原発をどうしていくのかという大きなテーマを前にして、自分たちが変われるのかどうかを問われています。そして、その結果は未来の人たちによってジャッジされることになるでしょう。

今まで原発に依存してきた社会構造の中で、その利害関係者が多いのはあたりまえで、変化を望まない人のほうが多数派を占めるのは、今までの社会の構造を前提として生活を組み立ててきている人たちによって社会が成り立っているので自明のことです。

そうはいっても、こと原発については、多数派がやるべきといっているからやるという類の問題ではなく、今回の事故によって、事故の際に(仮に事故がなくてもですが)払わなければならない犠牲が、自分たちで責任を取れる範囲をはるかに超えて途方もなく大きいのだということを身をもって知ったわけですから、これは、誰かがいいと思うとか悪いと思うとかご意見募集とか多数決で決めようとかそういうレベルのことではなく、自分たちで責任の取れないことはそもそもやるべきではないと思います。というか、やるべきではないのにやってしまった。結果、とんでもないことになってしまった。だからせめて、今からでもやめるべきだと思います。

起きてしまったことはもう元には戻せない。でも、次の事故はなんとか防がなければなりません。そして、原発がある限り、次の事故の可能性をゼロにすることは不可能です。それが私たちが生きている間に起きるかどうかはまた別の話です。やめなければ、いつかはまた起きる。その「いつか」に、私たちは去年、あたったわけです。

原発も機械です。家電メーカーが原発をつくっていることを見ても、家電と原発は、たいして変わらないものなのだということがわかります。そして、家電メーカーのアフターサービスで働いたことがある私の経験からいいますと、機械は、それはもう、確実に壊れます。そして、それが「いつ」なのかは、誰にもわからない。同じラインで、同じ時期につくられた同じ構造の機械でも、壊れるときは買った直後でも壊れるし、壊れないものは20年後でも壊れない。壊れない機械にあたるのは、ただの偶然みたいです。壊れない家電すら発明できない私たちが、壊れない原発なんて、それはありえません。

原発もまた、いつかはまたなんらかの原因で壊れるでしょうし、その時に、手の施しようもないことが今回、よくよくわかったわけですから、これはやっぱり、そういう危ないものを身近に置いて生活しなければ成り立たないような社会そのものを変えないと、落ち着いて生活もできないし未来の予定も立てられない。子どもだって安心して育てられません。つまり、今、私たちは、社会を変えなければいけない節目の時代に立っているのだと思います。

では、具体的にはどうすれば変化は起きるのでしょうか。

思うに、その変化というのは、けっこう地味な積み重ねで起きてくるものなのではないかと思います。

「強固に利害関係や習慣で身動きならないまでに硬直していた何かが確実に変わる」プロセスを見せてもらったことがあるのですが、それは、最初は「え、こんなことして何になるの?」というくらいの地味なことから始まり、その根気強い繰り返しによって積み重ねられて、2年くらい経ったら、あれ??っというような結果に結びつきました。私は、へええ、変化というのは、こういうふうに起きるものなのか、ということを学び、以来、何かを変えたいと思うときには、その人のやり方を真似ることにしています。

そのプロセスを実行したのは昔の上司で、その方は、ある事情で疲弊して慢性的な高コストになっていたとある小さな部署を立て直すべく(つまりリストラです)海外の本社から日本の法人に送り込まれて、私はその人の秘書兼通訳として2年ほどご一緒させていただきました。

言葉もわからない、文化も違う、もちろん文字も読めない日本にいきなり送り込まれて、コストを下げるというミッションを達成しなければならない。部下も協力的とはいえないし警戒している、本社からはなんとかしろと催促がくる。その中で、アシストにつけられたのはその専門分野には未経験な通訳が一人だけ。ほぼ、孤立無援です。

最初は、え、こんなちまちましたことやって、月に数千万のコストを削るなんてバランス的にどうなんですか、と疑問に思うような、本当に数千円のエビデンスを求める、といったようなことから、それらは始まりました。もちろん、人員削減もやらなければならなかった。でも、そういった大きなコスト削減よりも、むしろ、エビデンスをつけるとか、たとえ顧客のいうことでも正しくないことには折れない、でもそれもほどほどで100パーセントを求めないとか、非情にならなければならない場面では容赦しないが相手の人格は否定しないとか、協力してくれたら必ず応えるとか。そういった当たり前のことを当たり前にやる習慣やバランスを、部署内にも関係企業にも一貫して求めていったことによって、2年くらい後には、見事に数千万のコスト削減に成功し、その上司は本国に帰っていきました。私は、仕事の仕方だけではなく、物事や環境をとらえるときのやりかたを、この方に教わりました。

何かを変えたいというテーマを目の前にしているとき、劇的に変わるような方法というのはおそらくないのだと思います。ショートカットがあったら、それはもう、使えるものなら誰だって使いたい。でも、そんな道はたぶん、ないのです。それに、よくよく考えたら、むしろ、あったら危ないです。だって、そんなに簡単に変わるものは、誰だってまたぱっと杖を振るように変えられるわけですし、それがよい方向に変わるなんて、何の保証もないのですから。

脱原発には、時間がかかると思います。今、動いているのは6機ですが、再稼動の動きもまたあることでしょう。それは、社会が、長い長い時間をかけて、それを前提にした社会に育てられてきたわけですから、そういう動きがあるのは当然です。それも含めて変えていく。ショートカットはないかもしれませんが、少しずつ変えていけば、チリも積もれば山。数年後に振り返ったとき、「ああ、あのときのあんな小さなことが、ここにたどり着いたのか。」と思えるかもしれません。原発も、最初の一機からはじまって、全国に54機建てられるにいたったわけです。それをひとつずつ、時間をかけて元に戻していく。同じくらいの時間か、あるいはもっと時間ががかかるかもしれません。それでも、そういう社会をつくってきてしまった私たちが、自分たちの手で、それを元に戻していく。それが、脱原発するということだと、私は思いますし、私たちの責任だと思います。

今年が脱原発元年になりますように。そして、50年後に(そのとき私はたぶんもうこの世にはいませんが)、脱原発が必要なくなる日がきていることを祈っています。

2011年11月29日火曜日

なぜサイレント・ウォークなのか(プライベート・バージョン)

サイレント・ウォークをやることになりました。
http://silentwalk2011.blogspot.com/ 『3.11を忘れない。サイレント・ウォーク 2011』

上は一応、告知用のサイトなので、個人的なことをぐたぐたと書くのは望ましくないため、とはいっても個人的に思いがあるからこそやるわけですので、こちらに、もう少し背景や動機などを書きたいと思います。

私にとってのこのアクションのルーツは、天安門事件のときにオーストリアで参加したサイレント・デモです。友人に誘われて参加したのですが、集合場所で主催者の挨拶とオリエンテーションがあり、大声を出さない、走らない、などの注意事項の説明があったあと、参加者に白いカーネーションが渡されました。参加者はそれを持って一緒に街中を静かに行進し、大使館の前にいって、門の前に静かに顕花してその場を去りました。それは、天安門事件のときに亡くなった方を悼み、それに静かに抗議する、といった趣旨のデモでした。シュプレヒコールもなにもない静かなデモですが、抑えているからこそ強い抗議の気持ちの表現方法は、強く心に残りました。

実はそれより数年前に、オーストリアで原発建設計画が持ち上がったとき、当時の現地人の友人たちがみんな反対デモにいくことになり、じゃあ、私もいきたい、といいましたらば、お前は外国人だから下手すりゃ強制送還だからさすがにやめておけ、といわれ、断念したことがありました。それで、若い人を中心とした強い抗議活動などが功を奏し、オーストリアではその後、原発建設は中止されることとなったのです。オーストリアにはそれから30年ほど経ったいまでも、原発がありません。

今回、原発爆発のことがあったとき、しまった・・・、という後悔が強くありました。そういうコミュニティーの中で十代後半を過ごし、また日本では子育て系の地域活動などやってきたのに、そっちには頭がまわっていなかった。ミクロなところにばかり目がいっているうちに、後ろからがつんと殴られたような感じです。今までも、こんな事態にならないように、なにかの活動に参加するチャンスは日本でもいくらでもあったはずなのに、それに気がつかなかった自分の馬鹿さかげんを本当に後悔しました。

チェルノブイリの事故のときに欧州にいて、その頃の欧州の大騒ぎを身近に知っているだけに、今回の原発事故では、正直、ああ、終わった、と思いました。「終わった」というのは、文字通り、もう、ある意味で、世界は(少なくとも日本は)終わりにになってしまった、もうなにもかも遅い、手遅れだ、取り返しがつかないけれど、もうどうすることもできない、ということです。この「終わった」というのは、同じ時期にフランスに留学していた知人も同じことをいっていたので、当時の欧州での事故を身近に経験した人にはもしかしたらある程度共通した反応なのかもしれません。

その「終わった」感は、爆発した原発に、ホースで事故機に水が掛けられる映像を見たとき、決定的なものとなりました。ああ、あんな原始的な方法しかないなんて、ようは危機管理もなにもなかったんだ、ということは、これからもいきあたりばったりの対症療法の積み重ねしかないはずで、それが次の爆発に間に合わなかったら、そのときこそ、本当にもうおしまいだ、と私は思いました。


原発爆発直後から一週間くらいは、私は、自分と、息子と、みんなの(これからまもなく来るかもしれない)死を悼んで、引きこもって泣きながら過ごしました。

西に逃げた人もいましたし、私もそれは考えました。しかし、ヨーロッパの大陸のスケール感からいったら、日本はあまりにも小さすぎました。中国からの黄沙を心配する小さな国土で、その西にいるのか東にいるのかというのは、あまり意味がないように、私には思えたのです。もちろん、放射線の影響力ということからいえば、少しでも遠いに越したことはないのですが、それにしても、地震の活動期に入った日本の各地に原発があって、それがあまりにももろいものなのだ、ということを目の当たりにしては、もはや、ことここにいたっても脱原発の気配のない日本に、この先、安全な場所はないと思いました。この時期、欧州の友人からも受け入れるから逃げて来い、という連絡が頻繁に入り、それも検討したのですが、やはり経済やその他しがらみなど諸事情あって、それは無理でした。一人暮らしの独身で、というのなら別ですが、家族もちともなれば、身一つでぱっと動ける人のほうが少ないのではないでしょうか。昔、チェルノブイリの事故のときに逃げない人を、なぜ逃げないのか不思議に思ったものですが、自分が当事者になるとこういうもんなんだなあ、ということがようやくわかりました。

それで、そうやってgreefの時期にどっぷりとつかって、ある程度、腹がすわってきたので、とにかくもう、事情はどうあれ、ここにいるからには生き延びる可能性を高くするしかない、そのためには思いつくことを片っ端からやろうと思いました。なにしろ、息子や自分の命もかかっているわけですから。

それで、こういう緊急事態に、市民活動とかなんとか悠長なことをいっている余裕はないし、議員に働きかけるよりは議員になったほうが時間が短縮できると思って被選挙権を駆使したりなど、片っ端からできそうなことはしてみたのですが、それは、前提として、その「終わった」感覚があって捨て身になれたからです。原発事故は収束していない。次の爆発があったら、西も東もなく、おそらく私たちみんな、生き残るのは無理だろう、と思っていたわけですから。

その「次の爆発」が(いまのところは)ないまま、まさか半年以上ももつとは、実は思っていませんでした。ですから、当時の菅首相にしても今は病床におられる所長さんにしても、いろいろ責める人はいるのですが、とにかく私個人の感覚としては、現場放棄して逃げなかっただけでも本当に感謝したいです。誰がこんなとんでもない事態のときに責任者でいたいなどと思うでしょうか。彼らが逃げていたら、次の爆発が起きていたかもしれないし、事態はもっと悪くなっていたかもしれません。そうなったら私たちの終わりは、もっと早まっていたと、今でも私は信じています。

前置きが長くなりました。

そんなこんなで、被選挙権の駆使以外にも、いろんな団体にコンタクトしたり勉強したり、ちょっとうちには体の悪い犬がいるので遠出は無理だったのですが、近くで実施されたデモにも参加しました。

でも、デモの冒頭で各種団体のえらそうな人の挨拶があったり、プラカードや団体の横断幕や、左派の政治団体の機関紙に、あたかもその団体の活動であるかのごとくの記事が掲載されたりするとちょっと参加しているこちらとしては釈然としないわけです。別にこっちはその団体の活動に賛同して参加しているわけではなく、生き残るための脱原発、という一点で参加しているだけですから。

それに、一方的に誰かを責める気には、やっぱりなれない。自分だって今まで無関心だった。みんなも無関心だった。その結果、本当に「終わった」になってしまうかもしれない。今、誰かを責めても、もう、世界はもとには戻らない。もっともっと前に、ちゃんと考えたり行動してこなかった自分に、責任がまったくないとは、やはり私には思えませんでした。

それで、12月11日になにかやりたい、という声をかけてもらったときに、政治団体や特定の団体がらみの反対運動なら私は乗らない、そういうのではなくて、女性中心に個人の集まりでやるのならやりたい、といいました。

あと、やはり、原発だけではなく、あの日、地震の直後に、そのときたまたまいた県のNPOセンター(ぽぽら)でテレビをつけたとき、画面の中で、リアルタイムでつなみの前の道路を車が通っていく、逃げてほしいのに声が届かない、なすすべもないあのショック。そして被災地支援にいった友人を通して聞く現状の深刻さなど、やはり、直接に地震やつなみの被害を受けたり、身近な人を亡くしていなかったとしても、ある意味ではやはり残された立場である私たちみんなにとって、個々で差はあるにせよ、これがショックでないわけがないと思うし、私たちもまた、深く傷ついているのだと思います。だから、こぶしを振り上げたり、誰かを責めたり、そういうことの前に、いったんちゃんと悼むということをやらないと、先に進めないような気がしていました。

そして、脱原発派とか、推進派とか、そういうカテゴリわけではなくて、やはりそれぞれの視点が違ったり意見は対立したとしても、人類で初の、このとんでもない難問に、すべての人が初体験のぶっつけ本番で向き合っていかなければならないこの困難な時代に一緒に日本に生きていて、まあはっきりいってこの緊急事態に仲間割れしてる場合ではないのではないかと思いますし、いってみれば、日本人全員が、世界のためにもこのとんでもない課題の解決をなんとしてもしなければいけない責任のある立場なわけですから、とにかく、意見の違いは違いとして別途議論するとしても、基本は同じ方向向いて連帯しましょう、その上で、違いは違いとして冷静に議論して、みんなにとってよりよい道を地道に一緒にみつけていきましょう、というのがいいんじゃないかと思うわけです。

なので、いいたいことはそれぞれ多々あると思うのですが、それは各自でいつでもどこでも街頭演説もできるし、主張の機会は、このようなブログも含めて手段は多様にあるわけですから、それはその日はなしにしましょう、ということにしました。

これが、デモではなく、サイレント・ウォーク にしたかった、私にとっての企画にいたるまでのおおまかなプロセスと理由です。

2011年9月29日木曜日

次の投票について考える(3)ポスターについて

選挙が近付くと張り出されるあのポスター。

ブルーの背景にガッツポーズだったり、なかには職業をアピールしたいのか白衣のコスプレもどきまであって、個人的には、なにか勘違いしてるんじゃないかと感じます。

有名人や芸能人、あるいは顔の魅力だけで数千人に希求できるほどの自信があるなら別ですが、はっきりいって十人並みで無名な市民の顔など、なんのアイコンにもなりません。(顔だけで数千票も稼げるならそれはすでに有名人といえるでしょう。)

そもそも、選挙期間中は限定されている貴重な広報手段を、顔のアップと、素人が考えた「頑張ります!」みたいな他との差別化ができないようなありがちなコピーで済ませてしまうなんて、なんというもったいないことをするのでしょうか。(ちなみに、顔をアップで出さなきゃいけないなんて様式のしばりは一切ありません。)

コンサートでも展覧会でもポスターがつくられます。そこには、限られたスペースの中で、必要な情報をきちんと伝えて集客をするための工夫がされます。それが集客ツールの基本です。

では、選挙ポスターで伝えるべきことはなんでしょうか。候補者の顔に興味がある人なんて、いったいどれくらいいるのでしょう。顔を比べざるを得ないのは、顔しか出されていないからです。投票する立場から見たら、顔なんてはっきりいってどうでもいい。なにをやるつもりなのか、どういう考えなのか。それが知りたいのです。顔からそれを暗に読みとって、なんてまわりくどいことをせず、堂々と、ポスターに主張を書けばいいと思います。

ちなみに某氏の場合、顔も一応、ツイッターのアイコン程度には出しましたが、右下に申し訳程度に小さく。あとは全面、文字でした。他に考えを伝える手段がほぼ無かったからです。

それぞれの候補者が自分の主張をポスターなどでも書いていくようになれば、素通りされることがほとんどであろうあのポスターも(そのために莫大な公費が費やされるのです)、立ち止まって読んでくれる人が増え、選挙そのものにも、もっと関心がもたれるようになるのではないでしょうか。

政党などの縛りのない個人候補者だからこそ、書けることもあります。組織に属していない人は、失うものもありません。組織の縛りがないという点では、無所属の方が有利なはずです。そのくらいのアドバンテージは逆手にとりたいものです。

なお、あまり欲張って、あれも書きたい、これも書きたいと八方美人をやってしまうと、結局、政党候補者との差別化ができなくなり、埋没してしまうと思います。

欲張らず、ぶれず、自分が本当にやるべき、これだけはやりたい、できる、という「ミッション」を、ひとつきちんと打ち出している候補者の政策に共感ができたら、私は必ずその人に投票したいと思います。

20110929 ntogn

2011年9月11日日曜日

次の投票について考える(2)広報について

今日は、地震からちょうど半年の月命日です。とにかく菅さんをやめさせろ一点張りの国会の空転が、新体制でなんとか落ち着いてくれるのではないかとかすかな希望を抱き始めた矢先、就任間もなく鉢呂さんが辞任してしまいました。

日本が民主主義国だというのは錯覚だったようです。民意ではなくマスコミの気分しだいで大臣の首が飛ぶ国、日本。もちろん、そのバックにはスポンサー様のご意向があるわけです。こういうかたちの独裁というのもあったのだということを、この半年で思い知りました。独裁者が壇上に立って演説した時代はもう終わったようです。

わずか数日でマスコミが騒げば大臣が辞任という現状をみても、この先の政治情勢がいつどう急変するか、本当にわかりません。このままなんとか治まるだろう、という希望的観測に保証はついていません。その保証は「民主主義」であったはずなのですが、その保証がどうやらあてにならないようです。

さて、選挙といえば思い浮かぶのは、あのポスター。選挙近くになると、道ばたにベニアかなにかでつくられた看板が立てられて、そうこうしているうちに、いつのまにか、候補者の顔がでかでかとアップで印刷されたポスターが貼られはじめて、選挙カーががなりたてるようになって、あ、選挙なのね、と気づいたりするわけですが、実は、選挙期間中(公示から投票日まで)以外は、誰も「次の選挙に立候補しますから投票してね」とか、いってはいけないことになっているそうです。

つまり、選挙活動をしていいのは、選挙期間内だけ。普段から、もし議員になったら、こういうことをやりますっていってくれればわかりやすいんですが、それは難しいみたいです。次の選挙の準備活動は法律で禁止されているそうでして、なんだかよくわからん法律ですが、法律は法律。違反すれば公職選挙法違反です。

そんなわけで、みなさん、選挙期間中に、必死でアピールするわけなのですが、そのアピールの方法というのもまた、細かく制限がされています。

選挙期間中にすべての候補者に許されている紙ベースの広報手段は、ひとつは、新聞に掲載される選挙公報(1回だけ)、ふたつめは選挙区内で張る場所が定められたポスター掲示場へのポスターの掲示と、みっつめは、選挙管理委員会から支給される、専用のハガキ、以上です。そのほかの、ちらしとか、メモとか、メールとか、あるいはネット上での広報とか。すべてNG。ハガキも定められたハガキ以外は使ってはいけないことになっていて、枚数は定められていますし、それだって自由に配れるわけではなく、郵便局で所定の手続きを経て送らないといけません。 手渡しNGですし、友だちにお願いして、知り合いに送っておいてくれるかな?みたいなのもNG。ちらしのポスティングとか道端で配るとか、もちろんダメ。

ただし、4人以上の候補者を出している大政党であれば、本人の広報物は無理ですが、政党の広報物は選挙期間内でも配ってもいいそうです。ポスティングでもなんでもし放題。え?なんで?って・・・だって政党の政治活動ですから。べつに候補者に入れてくれっていってないし?という理屈みたいですが、友人が、これを知ってさすがにあまりに不公平だと怒ってました。

ようするに、新聞や郵便文化と無縁な若者層や、無所属の候補者には、自然、不利になるような仕組みです。メールによる広報については、今までもたびたび解禁の動きがあったようですが、そのたびにつぶされてきたようです。

そんなわけで、「もともと不利なルールのもとに戦う」戦略が、若い人や、組織と無縁な人には求められます。その限られた広報手段をどう活用していくのか。知恵を絞らないと組織には勝てません。

次回はポスターについて書きます。

ntogn

2011年9月7日水曜日

次の投票について考える(2)立候補ってどうやるの?

以下、一人称を避けて書きますので「某氏」となっているところはご想像におまかせするとして、さて、思いつくままランダムテーマで書いていくのでいきなりですが、たとえば、ある日、あなたが「議員を動かす動かすっていうけど、いっこうに動いてくれないから、この際、自分で動ける立場になったほうがもしかして話がはやくて合理的?」と思い立ったとして、じゃあ、この際、選挙も近いので立候補することにしたとします。

まず、何をすればいいのか? (この際、選挙とは何かとかネットや本で調べましょうとか、そういう手取り足取りの話は飛ばします。なお、私は政治家ではないので誰からも指導をうけたことはなく、下記はまったくの某氏流で流れだけをおおまかに説明したものです。)

まずやることは、選挙管理委員会(以下、選管と略)にいって、「立候補したいんですけど用紙ください。」といって、申込用紙に記入してハンコおして選挙管理委員会に提出することです。用紙はたしか一枚。住所とか氏名とか。某氏の正直な感想としては、あら、住民票の請求とたいして変わらないのね、といった感じです。

これは、公示までに供託金の払い込みと書類提出が間に合うならば、ぎりぎりでもできます。立候補予定者への説明会なども行われていますが、あれに出ることは、立候補の必須条件ではありません。

つまり、いくつか法律で制約をうけている被選挙権の駆使にとくに問題がなく(ふつうに暮らしている市民で自治体からお仕事もらってるとかそういうことでない限り、とくに選挙権との違いはないと思います。)、申込用紙を書いて提出し、法務局にいって供託金を払い込んできて、その払い込んだ証明書を選管に出したら、一応、手をあげたということになるわけです。実にシンプル。

その供託金なのですが、県議選なら60万円、政令指定都市の市議選は50万、その他30万円です。でも、このお金は、最低ラインの票が集まれば、返してもらえます。その最低ラインも、実はそれほどハードルが高いわけではなく(とはいえ、某氏は被選挙権の駆使にお金がかかるのは不当なことだと考えていまして、最低ラインの票数が供託金返還の条件になるということは、すなわち組織票を持っている候補は実際にはノーリスクであって、政党などに属していない組織票のない個人候補だけがリスクを背負うということになるわけで、このへんも現状の選挙制度の欠陥だと思っていますが、今はそのことを話しても仕方がないのでそこはまた後日ということで)、そこは有権者や候補者の数になんとかを掛けて、みたいな数式があるので選管にきいてもらいたいんですが、私の住んでいる県議選で1300とか。そんな程度です。

ちなみに、一人くらい投票にいかなくたって何も変わらないと思っている人いますけど、立候補する人にしてみたら大違いです。たとえば1300が最低ラインだと仮定したとします。1299票だったら、供託金は没収され、選挙の際などにポスター貼りますよね、あの印刷費も、公費、つまり税金で支給されることになっているのですが、それもNGになってしまって、供託金没収と印刷費だけで、ざっと100万近く。このリスクを背負わなければ立候補できないとなったら、もちろん、立候補する人が減りますよね。で、そういう制度になっているわけです、残念なことに。だから、投票者が少なくて票の数自体が少ないと、組織票のない候補者にはよりリスクは高くなっていくので、組織をバックにした候補者がどんどん有利になっていって、組織から自由な候補者の立候補が抑制されていく、というわけです。これでは「ろくな候補者いないし」といわれても、そうはいってもねー、って感じではないですか?

とはいえ、某氏の場合、公示の二日前の夕方に申し込んで次の日はお金払いに行ったり書類書くのに一日ついやしてしまい、結局、まったく広報という広報ができないままに公示に突入してしまい、公示に入ると、メールやネットやツイッターなど、資金不足の人にはありがたいお知らせツールが法律で禁止されているためにまったく使えず、政治家になりたいなどと思ったこともなかったので当然ながら後援会などもなく、バイトを雇うお金もないから、実質、ほぼ友人と二人だけ+ランダムに訪れた学生ボランティアのみなさんなど、だけで、それで実質、使えたのは10日くらい。それでも1135人でしたので、これ、あと一週間あれば、なんとか供託金最低ラインはなっていたのではないかと思います。(つまり、あと200程度とどかずなんともならなかったわけです。)

でも、それにしても、ネットでの広報が法律で許されていれば、もう少し、なんとかなったはずです。そこはやはり悔しいです。(というか、そもそもそんなに間近になって出るなよ、という話なのですが、今回は、実は当初はデモをやる予定だったのです。同じタイミングで、仲間が原発と震災復興について立候補者に公開質問状を出したいのでそれについて選管に訊きにいく、というところから紆余曲折あって、結果として、公開質問状とデモをとりあえず保留にして立候補にしよう、ということになったのです。もちろん、こんな非常時でもなければ某氏もそのような無謀なことはしなかったでありましょう。しかし、今、日本存続の危機、くらいのときでみんな本当にそれどこじゃないのに、どの候補者もそれについていわないで何事もなかったかのように選挙決行するということにどうしても納得がいかなかったのです。)

供託金の話でひっかかってしまいましたが、その最低ラインというのは、つまり、リスク回避の話です。最終的には、出るからには勝たないとお話にならないので、過去の選挙のデータを見ると、だいたいの当確ラインがわかるはずです。それは、あまり変動しないようなので、一応、その数をそろえて、「会議に出席する権利」を勝ち取らなければなりません。(某氏の当確ラインは8000票くらいだったようです。)

そのために、申し込みが終わったら、その次になにをするか。ということで、次回は広報について書きたいと思います。

ntogn