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2011年9月29日木曜日

次の投票について考える(3)ポスターについて

選挙が近付くと張り出されるあのポスター。

ブルーの背景にガッツポーズだったり、なかには職業をアピールしたいのか白衣のコスプレもどきまであって、個人的には、なにか勘違いしてるんじゃないかと感じます。

有名人や芸能人、あるいは顔の魅力だけで数千人に希求できるほどの自信があるなら別ですが、はっきりいって十人並みで無名な市民の顔など、なんのアイコンにもなりません。(顔だけで数千票も稼げるならそれはすでに有名人といえるでしょう。)

そもそも、選挙期間中は限定されている貴重な広報手段を、顔のアップと、素人が考えた「頑張ります!」みたいな他との差別化ができないようなありがちなコピーで済ませてしまうなんて、なんというもったいないことをするのでしょうか。(ちなみに、顔をアップで出さなきゃいけないなんて様式のしばりは一切ありません。)

コンサートでも展覧会でもポスターがつくられます。そこには、限られたスペースの中で、必要な情報をきちんと伝えて集客をするための工夫がされます。それが集客ツールの基本です。

では、選挙ポスターで伝えるべきことはなんでしょうか。候補者の顔に興味がある人なんて、いったいどれくらいいるのでしょう。顔を比べざるを得ないのは、顔しか出されていないからです。投票する立場から見たら、顔なんてはっきりいってどうでもいい。なにをやるつもりなのか、どういう考えなのか。それが知りたいのです。顔からそれを暗に読みとって、なんてまわりくどいことをせず、堂々と、ポスターに主張を書けばいいと思います。

ちなみに某氏の場合、顔も一応、ツイッターのアイコン程度には出しましたが、右下に申し訳程度に小さく。あとは全面、文字でした。他に考えを伝える手段がほぼ無かったからです。

それぞれの候補者が自分の主張をポスターなどでも書いていくようになれば、素通りされることがほとんどであろうあのポスターも(そのために莫大な公費が費やされるのです)、立ち止まって読んでくれる人が増え、選挙そのものにも、もっと関心がもたれるようになるのではないでしょうか。

政党などの縛りのない個人候補者だからこそ、書けることもあります。組織に属していない人は、失うものもありません。組織の縛りがないという点では、無所属の方が有利なはずです。そのくらいのアドバンテージは逆手にとりたいものです。

なお、あまり欲張って、あれも書きたい、これも書きたいと八方美人をやってしまうと、結局、政党候補者との差別化ができなくなり、埋没してしまうと思います。

欲張らず、ぶれず、自分が本当にやるべき、これだけはやりたい、できる、という「ミッション」を、ひとつきちんと打ち出している候補者の政策に共感ができたら、私は必ずその人に投票したいと思います。

20110929 ntogn

2011年9月11日日曜日

次の投票について考える(2)広報について

今日は、地震からちょうど半年の月命日です。とにかく菅さんをやめさせろ一点張りの国会の空転が、新体制でなんとか落ち着いてくれるのではないかとかすかな希望を抱き始めた矢先、就任間もなく鉢呂さんが辞任してしまいました。

日本が民主主義国だというのは錯覚だったようです。民意ではなくマスコミの気分しだいで大臣の首が飛ぶ国、日本。もちろん、そのバックにはスポンサー様のご意向があるわけです。こういうかたちの独裁というのもあったのだということを、この半年で思い知りました。独裁者が壇上に立って演説した時代はもう終わったようです。

わずか数日でマスコミが騒げば大臣が辞任という現状をみても、この先の政治情勢がいつどう急変するか、本当にわかりません。このままなんとか治まるだろう、という希望的観測に保証はついていません。その保証は「民主主義」であったはずなのですが、その保証がどうやらあてにならないようです。

さて、選挙といえば思い浮かぶのは、あのポスター。選挙近くになると、道ばたにベニアかなにかでつくられた看板が立てられて、そうこうしているうちに、いつのまにか、候補者の顔がでかでかとアップで印刷されたポスターが貼られはじめて、選挙カーががなりたてるようになって、あ、選挙なのね、と気づいたりするわけですが、実は、選挙期間中(公示から投票日まで)以外は、誰も「次の選挙に立候補しますから投票してね」とか、いってはいけないことになっているそうです。

つまり、選挙活動をしていいのは、選挙期間内だけ。普段から、もし議員になったら、こういうことをやりますっていってくれればわかりやすいんですが、それは難しいみたいです。次の選挙の準備活動は法律で禁止されているそうでして、なんだかよくわからん法律ですが、法律は法律。違反すれば公職選挙法違反です。

そんなわけで、みなさん、選挙期間中に、必死でアピールするわけなのですが、そのアピールの方法というのもまた、細かく制限がされています。

選挙期間中にすべての候補者に許されている紙ベースの広報手段は、ひとつは、新聞に掲載される選挙公報(1回だけ)、ふたつめは選挙区内で張る場所が定められたポスター掲示場へのポスターの掲示と、みっつめは、選挙管理委員会から支給される、専用のハガキ、以上です。そのほかの、ちらしとか、メモとか、メールとか、あるいはネット上での広報とか。すべてNG。ハガキも定められたハガキ以外は使ってはいけないことになっていて、枚数は定められていますし、それだって自由に配れるわけではなく、郵便局で所定の手続きを経て送らないといけません。 手渡しNGですし、友だちにお願いして、知り合いに送っておいてくれるかな?みたいなのもNG。ちらしのポスティングとか道端で配るとか、もちろんダメ。

ただし、4人以上の候補者を出している大政党であれば、本人の広報物は無理ですが、政党の広報物は選挙期間内でも配ってもいいそうです。ポスティングでもなんでもし放題。え?なんで?って・・・だって政党の政治活動ですから。べつに候補者に入れてくれっていってないし?という理屈みたいですが、友人が、これを知ってさすがにあまりに不公平だと怒ってました。

ようするに、新聞や郵便文化と無縁な若者層や、無所属の候補者には、自然、不利になるような仕組みです。メールによる広報については、今までもたびたび解禁の動きがあったようですが、そのたびにつぶされてきたようです。

そんなわけで、「もともと不利なルールのもとに戦う」戦略が、若い人や、組織と無縁な人には求められます。その限られた広報手段をどう活用していくのか。知恵を絞らないと組織には勝てません。

次回はポスターについて書きます。

ntogn

2011年9月7日水曜日

次の投票について考える(2)立候補ってどうやるの?

以下、一人称を避けて書きますので「某氏」となっているところはご想像におまかせするとして、さて、思いつくままランダムテーマで書いていくのでいきなりですが、たとえば、ある日、あなたが「議員を動かす動かすっていうけど、いっこうに動いてくれないから、この際、自分で動ける立場になったほうがもしかして話がはやくて合理的?」と思い立ったとして、じゃあ、この際、選挙も近いので立候補することにしたとします。

まず、何をすればいいのか? (この際、選挙とは何かとかネットや本で調べましょうとか、そういう手取り足取りの話は飛ばします。なお、私は政治家ではないので誰からも指導をうけたことはなく、下記はまったくの某氏流で流れだけをおおまかに説明したものです。)

まずやることは、選挙管理委員会(以下、選管と略)にいって、「立候補したいんですけど用紙ください。」といって、申込用紙に記入してハンコおして選挙管理委員会に提出することです。用紙はたしか一枚。住所とか氏名とか。某氏の正直な感想としては、あら、住民票の請求とたいして変わらないのね、といった感じです。

これは、公示までに供託金の払い込みと書類提出が間に合うならば、ぎりぎりでもできます。立候補予定者への説明会なども行われていますが、あれに出ることは、立候補の必須条件ではありません。

つまり、いくつか法律で制約をうけている被選挙権の駆使にとくに問題がなく(ふつうに暮らしている市民で自治体からお仕事もらってるとかそういうことでない限り、とくに選挙権との違いはないと思います。)、申込用紙を書いて提出し、法務局にいって供託金を払い込んできて、その払い込んだ証明書を選管に出したら、一応、手をあげたということになるわけです。実にシンプル。

その供託金なのですが、県議選なら60万円、政令指定都市の市議選は50万、その他30万円です。でも、このお金は、最低ラインの票が集まれば、返してもらえます。その最低ラインも、実はそれほどハードルが高いわけではなく(とはいえ、某氏は被選挙権の駆使にお金がかかるのは不当なことだと考えていまして、最低ラインの票数が供託金返還の条件になるということは、すなわち組織票を持っている候補は実際にはノーリスクであって、政党などに属していない組織票のない個人候補だけがリスクを背負うということになるわけで、このへんも現状の選挙制度の欠陥だと思っていますが、今はそのことを話しても仕方がないのでそこはまた後日ということで)、そこは有権者や候補者の数になんとかを掛けて、みたいな数式があるので選管にきいてもらいたいんですが、私の住んでいる県議選で1300とか。そんな程度です。

ちなみに、一人くらい投票にいかなくたって何も変わらないと思っている人いますけど、立候補する人にしてみたら大違いです。たとえば1300が最低ラインだと仮定したとします。1299票だったら、供託金は没収され、選挙の際などにポスター貼りますよね、あの印刷費も、公費、つまり税金で支給されることになっているのですが、それもNGになってしまって、供託金没収と印刷費だけで、ざっと100万近く。このリスクを背負わなければ立候補できないとなったら、もちろん、立候補する人が減りますよね。で、そういう制度になっているわけです、残念なことに。だから、投票者が少なくて票の数自体が少ないと、組織票のない候補者にはよりリスクは高くなっていくので、組織をバックにした候補者がどんどん有利になっていって、組織から自由な候補者の立候補が抑制されていく、というわけです。これでは「ろくな候補者いないし」といわれても、そうはいってもねー、って感じではないですか?

とはいえ、某氏の場合、公示の二日前の夕方に申し込んで次の日はお金払いに行ったり書類書くのに一日ついやしてしまい、結局、まったく広報という広報ができないままに公示に突入してしまい、公示に入ると、メールやネットやツイッターなど、資金不足の人にはありがたいお知らせツールが法律で禁止されているためにまったく使えず、政治家になりたいなどと思ったこともなかったので当然ながら後援会などもなく、バイトを雇うお金もないから、実質、ほぼ友人と二人だけ+ランダムに訪れた学生ボランティアのみなさんなど、だけで、それで実質、使えたのは10日くらい。それでも1135人でしたので、これ、あと一週間あれば、なんとか供託金最低ラインはなっていたのではないかと思います。(つまり、あと200程度とどかずなんともならなかったわけです。)

でも、それにしても、ネットでの広報が法律で許されていれば、もう少し、なんとかなったはずです。そこはやはり悔しいです。(というか、そもそもそんなに間近になって出るなよ、という話なのですが、今回は、実は当初はデモをやる予定だったのです。同じタイミングで、仲間が原発と震災復興について立候補者に公開質問状を出したいのでそれについて選管に訊きにいく、というところから紆余曲折あって、結果として、公開質問状とデモをとりあえず保留にして立候補にしよう、ということになったのです。もちろん、こんな非常時でもなければ某氏もそのような無謀なことはしなかったでありましょう。しかし、今、日本存続の危機、くらいのときでみんな本当にそれどこじゃないのに、どの候補者もそれについていわないで何事もなかったかのように選挙決行するということにどうしても納得がいかなかったのです。)

供託金の話でひっかかってしまいましたが、その最低ラインというのは、つまり、リスク回避の話です。最終的には、出るからには勝たないとお話にならないので、過去の選挙のデータを見ると、だいたいの当確ラインがわかるはずです。それは、あまり変動しないようなので、一応、その数をそろえて、「会議に出席する権利」を勝ち取らなければなりません。(某氏の当確ラインは8000票くらいだったようです。)

そのために、申し込みが終わったら、その次になにをするか。ということで、次回は広報について書きたいと思います。

ntogn

2011年9月3日土曜日

次の投票について考える(1)

総理大臣が変わりました。そして、何もまだ始まっていないのに、すでに外国人献金問題などで新総理を叩く動きがあり、どうも解散総選挙になにがなんでも持っていきたい人たちがいるらしく、大震災に引き続く原発の大事故の収束もないのに、その総理が誰であろうと「総理である人」の個人攻撃に膨大な時間とエネルギーを浪費するこの国の政治に、一国民として悲しく情けない気持ちです。

・・・・・・などという感傷にひたっている時間は、どうやらなさそうです。

年内に解散総選挙やりたい動きがあるという説もありますので、そうなると、年末年始の時期に選挙ってことはたぶんないので、12月初旬くらいがねらい目なのでしょうか? 逆算すると、解散して選挙準備をして、ということにどう考えても一ヶ月以上は必要だと思うので、11月くらいには解散が流れになっていないとつじつまがあわない。すると、立候補者のアテは、10月には決まってないといけないのではないでしょうか? 

ちょっと待って。とすると、もしかして、もう1ヶ月ちょいしか時間ないの?・・・・・・ということに、書き始めてみて改めて愕然とします。当然、次の選挙準備は、水面下で活発になっていることと想像します。

さて、もし、そうなってしまったら、どうするか。

総理でも議員でも首長でも、誰かがやめたら、必ず誰かがその席に座ります。総理にやめろというのなら、よりよい後継者が必要だし、首長をリコールするなら、次の首長を誰にするのか、少なくとも自分たちの中ではアテがついていないといけません。

そして、それはただの願望ではなく、実現可能でなければいけません。今回、たとえば次の総理として誰がよいかということが議論になったときに、あの人がいい、この人がいい、という意見はたしかによく見かけました。しかし、その多くは、それこそクーデターでも起きなければ実現不可能に近い、夢のような話でした。

野党の政治家を推したり、政権与党の候補者であってもさまざまな事情で現状では総理として国民が受け入れるのは到底無理であろうという政治家であったり、そもそも議員ですらない場合もありました。でも、無理なことを夢見ても仕方がないのです。もちろん、その人を総理にするためであったら命がけでクーデターを起こすことも辞さない、くらいの覚悟と用意があるのなら別ですが。

もっとも、仮に命を懸けたとしても、そういう夢は、基本、独裁政権でもない限り、すぐにかなうことはないはずです。仮に独裁政権国家であれば、武器を準備して軍隊を動かし、独裁者を引きずり下ろして議会場を占拠、指導者もすべて死刑か国外追放、利権集団は財産没収か投獄、それを実現するために法律すべてがらがらぽん、という芸当ができるかもしれません。しかし、今はフランス革命の時代ではなく、日本もそういうシステムになっていません。

ですから、今、私たちにできるのは、選挙権と被選挙権の駆使。地味ですが、これしかありません。そんなわけで、これから何回かにわたって、市民レベルで次の選挙や投票について考えてみませんか、ということを書いてみたいと思います。

まず、誰に入れるかを決めたいし、入れたい人がいなかったら、はやく探してこないと間に合わない。誰かが出てくるに違いないなんて、そんな奇跡、今まで起こったことありましたか? 黙って座っていれば理想の王子様が、お姫様が、「私を選んでください」と現れて杖を一振りして世の中を変えてくれるなんて、そんな夢物語は、この先も100%起こらないと、私は確信しています。


投票日が近くなってきてから、さてこの候補者は何を考えているのかな、などと調べ始める人がいますが、あれ、だめなんです。わかりにくい仕組みになっています。それは法律がそうなっているからなんですが、これに腹を立てて、どうせ政治家なんて自分の意見すら表明しない、だから選挙なんて誰に入れても同じなんて思ったらそれは違うと思います。

そういう、黙って待っていたら理想のお見合い相手があてがわれて、自分はイエスといえばいいだけ、なんて時代は、もう、とっくに終わりました。世の中変えたければ、自分で探しにいくしかありません。自分で探しにいくことすらしなかったくせに、実際に目の前に相手が現れると、この人はダメ、あの人はダメと文句をいう。文句をいう暇があったら立ち上がって探しにいくか、一人でやっていく決心をすればいいのです。

なお、それを書くにあたって、このブログから私の個人名を消しました。実は、この前、この非常時に選挙決行するということに心底、キレまして、県議選に立候補した経緯があるので、特定の政治家(私?私は政治家ではありません。)や選挙について言及する行為と受け取られたくないからです。

立候補を決意したのは公示の二日前の夕方。当然、なんの準備もない無謀な行為で、当然のことながら落選したのですが、おかげさまでいろいろと仕組みの裏が見えました。感想は、できるなら、もっと若い人たちがどんどん立候補すべきだし、それを応援できる機会があったらぜひやりたい、ということでした。

選挙には莫大なお金がかかる、政治家というのは特別な人がなるもの、などなど世間でいわれていることは、ウソではないかもしれませんが、真実かというと、そうでもありません。やってみてわかったのですが、選挙権の駆使と被選挙権の駆使は、基本的には、あまり変わらないことだと思います。投票にいくのと同じように、立候補も誰にでもできます。資格もいらない。学歴も経験も関係ない。試験があるわけでもない。よくも悪くも、誰でも選挙に立候補できる仕組みに、一応は、なっているのです。預けたお金も、ある程度の票が集まりさえすれば、返してもらえます。

ですから、急いで、次の選挙について知恵を絞って考えてはどうでしょう。「政治家」がダメだというのなら、政治家ではない人に、議員になってもらえばいいだけの話です。政治は政治家がやるもの、というのは、ただの思い込みです。政治家がダメだと文句をいうのではなく、市民が政治をやればいいだけの話です。たしかに投票率は低い。しかし、投票率が低いということは、いつでも結果はひっくりかえせるということでもあります。もちろん、市民が結束しさえすれば、ですが。

(つづく)

*上記は、年内に解散総選挙がある、という意味ではありません、念のため。
もしそうなってしまってもあわてないように準備しましょうね、という危機管理の話をしています。