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2011年8月16日火曜日

なんのための脱原発か(「第三身分とは何か」シイエスを読みながら)

「第三身分とは何か」シイエス著を読んでいます(まだ途中です)。読みながら、頭の中の混線が解けていきます。

これは、フランス革命を目前にした時代の激動期に「世の中を変えた」名著だそうです。「上位二身分」として貴族や宗教界が、社会の富や決定権を独占していた時代に、大衆を「第三身分」として、「第三身分とは何か。すべてである。」といって、大衆こそが真の国家でありそれ以外は国民ではないという主張を展開しています。(展開しているところまでしかまだ読んでいません。)

自らの血統を「国王のために流す血」であるということでその世襲的特権の独占を正当化したことに、同じく当時の思想家であったセリエッティが「それでは、人民の血は、水だと言うのか」といった言葉を、シイエスが引用していた一文が、まずしっくりと腑に落ちました。

おかげさまでようやく、「なぜ」原発をやめなければいけないのかというループから開放されて、「なんのために」原発をやめなければいけないのかという原点が、とてもシンプルに整理されました。

なんでもそうですが、「なぜだめなのか(why )」という理由ももちろん必要なのですが、なによりも「なんのために(what for)」という目的なしには続きません。

こと、原発の廃絶などは、長い時間がかかることでしょうから、それまで自分が生きているのかもあやしいし、むしろここまで政治が混迷しているとさすがに嫌気もさしてきて、いっそ独立国でもつくるかとか、まあどうせこの先長くもないしとか、年取ってるから放射線感受性弱いよねーとか、子どもさえ海外にでも逃がせばまあいっか、とか、妊婦叩きのめしたり見張りたてて計画的に未成年集団強姦する大学生が罪逃れるような国でなにが脱原発だよとか、そんな国に執着するよりやっぱ欧州、いいよねーあーあの人に会いたいなあ・・・みたいなところに、ついつい、気持ちが逃げたがります。

でも、違う違う。そういうことじゃなかったのでした。やっぱり原発はやめないといけません。それは、自分が逃げるか逃げないかっていうこととぜんぜん関係なく。

私は、なんのために原発を否定しなければならないのか。

それは、私と同じ、私の息子と同じ、私の愛する誰かと同じ、一人の人間である誰かが、金の力をもって、命をけずる原発の清掃作業や事故処理に携わることなく原発を運転しつづけることは実際に不可能であって、つまり、原発の運転をたとえ消極的にでも容認するということは、私は、自らの安楽(たとえば日本の経済とか自分の仕事とか夏のエアコンとか)のために、誰か(それは、広い意味で私の息子でもあり愛する人であり)を、ゆっくりと、痛みと苦しみのなかで死んでいく道に追いやっているということに他ならないわけで、私は、それを絶対に、容認してはいけないからです。

それは、見知らぬ誰かではない、と私は思います。それは、見知らぬ誰かでもあるけれど、同時に私の息子でもある。そこにはなんら変わるものはないと思います。だから、原発で作業をしている人を思うとき、どこかの見知らぬ労働者ではなく、自分の身近な誰かを思い浮かべてそのうえでそれをやらせていいのか、そんなことをやらせなければ成り立たないような世の中で、それに加担して生きている自分で本当にいいのかを自らに問わないと、それは、どこか人として、嘘があると思います。

私は、私の息子が、原発で被曝して、長い時間をかけて体が蝕まれて、痛みと苦しみの中で死んでいくくらいだったら、まさに、自分が死んだほうがましです。それは、息子ではないかもしれませんが息子かも知れないし、私が死んでしまったずっと後に、それは私の孫かもしれない。そもそも血縁であるか、その人を知っているかどうかということは、重要な問題ではありません。自分の息子がやられて耐えられない残酷なことを、どうして他人なら容認できるのでしょうか。

つまり、私は、自分が被害者になるかもしれないから(線量が高いから、事故機から距離が近いから)、原発を止めなければいけないのではない。もちろん、それも怖いです。しかし、なによりも、ゆっくりとした目に見えない虐待とその末の殺人、人の命の重さを金で買って天秤にかける世の中の仕組みに組み込まれている自分をなんとかしないと、私は、自分の人生のつじつまがどうしてもあわない。

原発事故が収束しようと、線量が高かろうと低かろうと、日本の総理大臣が誰になろうと、たとえ日本という国そのものが存続しようとしまいと、自らが影響を受ける地域にいようといまいと、年をとって放射線の影響が現れるより前に死ぬことが明らかであろうと、たとえ海外に移住したとしても、逃げられても、逃げられなくても、その殺人の加害者になることを、私は生涯を通じて拒否し続けなければ、もう、生きることができません。それを見ないで(知らないで、知ろうとしないで)今まで生きてきてしまったわけですが、見えたらもう、さすがにこれ以上は無理です。

そこを中心に置いたら、あらゆる詭弁がどれほどばかげていることか。
海外か西日本に逃げればいいじゃないかとか、線量はそれほど高くないとか、直ちに健康に影響はないとか経済も大切だとか次の原発は安全だとか数学的な確率だとか。

どこに逃げたって、経済が回ったって、半減期になったって、毒を排出する魔法の薬が発明されたって、確率が五億分の一だって、その、愛する誰かを緩慢な死に追いやっている加害者でありつづけようとする自分から逃れることはできません。

原発のことは、人権のことだと思います。

誰かのほっぺたを金でたたいて毒の海にみんなで黙って突き落とす。自分は安全な場所にいる。あまり不愉快なものは見たくないので見ないようにしておく。その人が使えなくなったら、次の人を見つけてくる。自分がそれをやりたくないから、金(電気代)を払って、見知らぬ誰かに見えないところでやってもらう。金があるからいくらでも後釜はみつかります。そしてその人が使い物にならなくなったら捨てて次の人を配置します。それを、未来永劫やっていく。それが原発を推進したり、容認することであると、私は理解しています。時系列で考えれば、それはもちろん、今の自分たちの安楽のために、未来の子どもたちを犠牲にする行為です。そんなことが許されるわけがありません。

原発事故以来、カタカナの専門用語とか、ゼロが並んだ数字とか、安全なのかそうじゃないのかで声の大きさを競っている学者や政治家の攻防、マスコミの利権バイアスかかりまくりの放送(もう「報道」という言葉を使うのはさすがにやめました。)、チェルノブイリではどうだったかとか、気にしすぎのモンペアだとか、8月大地震説とか、EM菌とか波動とか、エキセントリックというよりも、むしろ子どもの喧嘩の台詞みたいな政治家たたきで、原発爆発したって放射性物質拡散したって、なんだ、普通に生活できてるし電気足りてるじゃん、たいしたことなかったわ、みたいな詭弁とか。

そういうことじゃない。

私たちには、自分と同じ誰かを、金の力で自分の手も汚さずに殺す権利なんてないし、たとえそんな権利を国が与えたとしても(今のところはそれに無理やり加担させられているわけですが)、それに甘んじていいはずがありません。

国なんて、最終的にはどうでもいい。地球上の多くの国が、生まれて、消えていきました。日本だって国が統一されたのはそれほど昔のことではありませんし、長い歴史の流れからみたら、今の状態だって過渡期なのかもしれません。

そんなことよりもなによりも、私たちは、やっぱり、殺してはいけない。

原発からの距離にも年齢にも線量にも事故の収束の度合いにも政治のどたばたにも政権にもまったく関係なく、私は、いつまでも、原発という集金装置を通した殺人への加担を拒否していきますし、それを達成するための仲間を求め続けます。

つまり、「脱原発のWhat for」 は、被害者になりたくない自分を守るためではなく、愛する人と同じ存在である誰かを殺すことをやめるためであったことを、昨日、この本を読み始めて、改めて思いだしたのでした。


og 20110816


2011年8月7日日曜日

よりよい食べ物をめぐる葛藤

秋の収穫シーズンが近づきました。

3.11の地震に引き続く原発事故の後、一時期、食料が一部、確保困難な時期があり、その後も、スーパーに行くたびに、ここに並んでいるものを、誰かと奪い合わなければならない恐怖が頭から離れず、買物にいくとよく、棚にものがなくなった風景を想像してしたりして暗澹たる気持ちになっていました。

その気持ちのなかには、たんに食料が入手しづらくなるのが怖いという以外に、なにかもっと奥底にある恐怖感があるようです。それがどこからきているのか、自分でもよくわからなかったのですが、その感覚を獲得した瞬間というか、ルーツが、先日、わかりました。

百貨店の食料品売り場で清涼飲料コーナーで海外ブランドの100%ジュースの瓶を見たとたんに、30年前のある日の記憶がフラッシュバックしたのです。

当時、音楽学生としてオーストリアのウィーンに留学中だった私は、当時まだ東西で別れていた旧東ドイツのライプツィヒで音楽コンクールがあったので、参加者として出かけていきました。

30年前の東と西の格差は大きく、経済的にも段違いで、シェパードを従えて機関銃を持った警備兵で厳重に警戒されている国境を越えて東ドイツに移動すると、そこは、食べ物も違う、空気も違う(排気ガスの規制などが違ったのだと思います)、売られているものも違う(そもそも食料があまり売られていない慢性的な物不足の)、別世界でした。

野菜なども乏しくて、一週間くらいいただけで、飢餓感がつのってきます。食べ物の量は足りていても栄養が偏っていたせいだと思います。果物とか、野菜とか、そういうものが恋しくなりました。
それで、免税店にいくことにしました。町には売られていなくても、外国人だけがパスポートを示して入店を許されるその店には、チョコレートでも、100%の果物のジュースでも、なんでもそろっているのです。外貨獲得策で、お金(外貨)を出せば、いくら物不足の国でも、ある程度は自由にものが買えるというわけです。

当時、社会問題に関心が無かった私は、とくに疑問も持たず、免税店で『グラニーニ』ブランドの100%オレンジジュースを買って、ジュースの瓶を裸のままで手に持って、伴奏者と一緒に、近くの公園に向かいました。

そのとき、公園で噴水に向かう道すがら、先生に引率されたおそらく小学校低学年くらいの子どもたちの一行とすれ違ったのですが、その子どもたちがこちらを指差して、口々に「グラニーニ、グラニーニ!」といったのです。

一瞬、なにをいわれているのかわからなかったのですが、すぐにそのジュースが当時の東では珍しい高級品であることや、そういったものが現地の人たちには入手できないものなのだということに思い当たりました。

それに気づいたときの気まずさ、罪悪感。恥ずかしさ。ああ、こういう子どもたちの手からよりよい食べ物を奪いながら日々栄養足りてる自分。たかだか10日くらいも我慢できずに免税店で100%ジュースを買わずにいられない自分の弱さと情けなさ。そして数日後にはまた西に戻って、豊富な食べ物を買い放題の生活に戻るというこの格差と傲慢。

当時、まだ十代で、日本と欧州しか知らず、他より優れることしか頭になく、学生寮の地下にこもって1日に6時間から8時間もひたすら練習ばかりしていた私が、はじめて社会の中で、他のより弱い人から日々、あらゆるものを奪い続けて生きている自分を、実体験によって自覚した瞬間でありました。

その記憶は風化することなく30年も持ち越されてきて、それが、スーパーで海外ブランドの100%のジュースを目にした瞬間にフラッシュバックしたのです。

うろたえた私は、そのまま何も買わずにその場を去りました。

これから、より安全な食べ物をどう確保していくのかは、頭の痛い問題です。
誰だって、より安全で体によい食べ物を食べたい。私もそうですし、子どもに食べさせるときにはなおのことです。

そこで、自分たちの安全を確保したいという本能と、どのようにして、安全な食べ物をシェアしていくのかの折り合いをつけていくのかは、早めに考えて、本当に草の根レベルで小さなことから対策していかなければいけない問題だと思います。

それはたんに、安全な食べ物を確保するだけでは足りないと思います。それだけに任せてしまったら、ただの弱肉強食です。経済力と体力と、数の勝負になっていきます。より経済力のあるもの、より体力のあるもの、より健康なものが、必ず勝ちます。

しかしその競争に勝つことが無条件によいとは、やはり信じることができずにいます。

自分が安全な食べ物を得ることは、隣人から安全な食べ物を奪う行為と無関係では済まされません。だからといってじゃあ自分が犠牲になりますけっこうですというほど達観できているわけではないのですが、できうるならばやはり、できる限り分け合っていく仕組みをどうやってつくれるのかという悩みや痛みは捨てたくないのです。

具体的には共同購入とか、地域の生産者と連携してどうやってより安全な食べ物を確保するのかの方法を試みるとか、周辺でもいろいろな動きがありますし、自分自身もあがいています。

何が正しいのかは、まだわかりません。選択肢があるということは、正しい答えはないということなのではないかと思いますから、たぶん、間違えたこともたくさんやることになるとは思いますが、それでもなにもやらないでパワーゲームに任せるよりはマシなのではないかと思ったりします。日々、葛藤ではありますが。

これから収穫シーズンを向かえて汚染が明らかになってきたら、状況は厳しくなってくる可能性があります。そういう状況であればこそ、できそうなことは試みること、他者に働きかけること、排除しないこと、できるだけ対立せずに対話していくこと、情報を共有すること、できるだけ分け合いながら自分や子どもを含めたみんなにとってよりよい道をみんなで探していくこと。そういうことを諦めたくないと、改めて今、思っています。

20110807 og