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2011年4月16日土曜日

自殺対策の政策転換の必要性について(1)

キャベツ農家の方がお亡くなりになりました。まず、ご遺族のみなさまに心よりお悔やみを申し上げます。

このことについて、一部に政治家批判の道具に使おうとする動きがあり、まさにその不謹慎さに非常に憤っています。
自殺は、なにかのプロバガンダに利用されるべきことがらではないと思います。

私たちがまず頭に置いておかなければならないのは、日本は、すでに12年以上に渡って、年間に3万人以上、つまり、毎日80人以上の方たちがが自殺によって自らの命を断っている社会であるということです。

それは、昨日までもそうだったし、今日もまたそうです。残念ながら明日もそうだと思います。そして、きちんとその事実を踏まえて対策をしていかないと、こ のような状況の中、非常に深刻な事態になっていく可能性があります。それは、政治家を叩くことによっては防ぐことはできません。今だからこそ、自殺対策を 含む政策そのものを転換しないと、このような事態は改善されないと思います。

前々から、そろそろ、日本のこれまでの自殺対策政策の失敗と政策転換の必要性を、誰かがいうべきだろうと思っていたのですが、どうもだれもいってくれる気配がないので、この際なので自分でいうことにしました。

実は前々からいいたくて喉から出かかっていたのですが、私は学者でも政治家でも政策や精神保健の専門家でもない。正直、それを証明するだけのネタも持って いない。そもそも、そういう論理的なことは、きちんと学者さんが調べて裏付け持ってきていうのが筋であろうと。まあ正直なところ、遠慮して我慢していたわ けです。

しかし、ことここに至っては、そんなことはもう、どうでもいいです。専門家が必ずあてになるわけではないということは、私は今回つくづく学びました。ですから、自分がいうべきだと思ったことをいうことにしました。

まず、私の立場と考えを明らかにします。

私は、2年前から自殺によって身近な人を亡くした遺族の支援システムをどう構築するか、という研究グループに参加しています。これは、親族などの自殺とい う、非常に危機的な出来事にあったときに、社会がその危機をどう支えていくのか、具体的な仕組みをつくることを目的とした市民有志によるグループです。

私たちの仲間には、NPO関係者や福祉関係の研究者、遺族、僧侶などが入っていますが、メンバーのうち誰が遺族でそうではないのかということは公表しない 方針です。そこを争点にしたくないことと、誰かひとりが遺族であるということを表明することによって、あの人は遺族、この人は遺族ではないという色分けを せざるをえなくなってくるからです。さらにいうと、マスコミにお涙ちょうだいのストーリーを提供したくないということもあります。マスコミは営利の企業で す。「悲しみを乗り越えて」などというストーリーには飛びつきます。売れるからです。個人的な物語をマスコミの営利追及のために提供する必要を、私たちは まったく感じていません。
それに、そういうことをしていると、社会的な仕組みになりません。私たちの目的は、突発的に起きた大きな危機に直面している人が、孤立せず、社会的に支えられる具体的な仕組みをつくることです。

これを踏まえて、以下は私・ntognの個人的な考えと主張です。(団体としての意見表明などではありません。)一度には書ききれないので、今後、時間をみつけて、少しずつ、自分の考えを書いていきます。

まず、日本の自殺対策政策は、客観的に見て成果を上げていないと思います。
今の日本の自殺対策は、啓蒙と精神保健福祉が中心です。具体的には、テレビなどを使った宣伝(例:「おとうさん、眠れてる?」)、啓発を目的としたシンポジウム等の開催、全国の傾聴ボランティア等への微々たる予算の配分などです。

そして、現在の「鬱病だから自殺する」という前提に基づく政策の方向性は、私は、間違っていると思っています。
日本の自殺対策は、政策の方向性が間違っていたということを素直に認めて、考え直し、新しい政策をつくり、そしてすみやかに実行する必要があると思います。
今までの「うつ病説」に基づいた啓蒙や傾聴、うつ病治療の促進オンリーから脱却し、経済、生活支援、労働、福祉などによる社会的な支え中心に転換し、具体的な手を打っていかないと、このような状況にあって、今後、非常に深刻なことになるのではないかと危惧しています。

「うつ病です」「だから周囲が気がついてあげれば自殺は防げます」というのは、自己責任論です。うつ病は、確かに自殺の原因のひとつであるかもしれません が、すべてではありません。一部をクローズアップすることによって、他にも必要とされる支援に目をつぶるのは、正しいやり方だとは思えません。

「自殺をするのは、本人がうつ病になったからである」→「したがってうつ病が治療されていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは医者にいって適切な治療 をしなかったからだ」→「適切な治療を本人が受けるべきだった」→「本人が気づかないなら周囲が気づいていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは気 づかなかった周囲のせいだ」→ループ、というわけですが、これは、果たして本当に正しいのでしょうか。

実際には、様々な理由が背景にあ るにも関わらず、それらの末に鬱状態になったという、いってみれば砂時計の最期のひとつぶにだけスポットライトをあてても、そこにいたった問題の解決には 結びつきません。また、仮にうつ病の治療を受けたとしても、その原因になったことがらが、自然と解消されるわけではないのです。その課題解決を含めて、社 会がいっしょにやっていくのだという方向性に自殺対策の政策転換をする必要があると思います。

なお、これから自殺がおこるたびに、おそらくメディアや政治関係者がそれを利用して自らの利益に結び付けようとする動きがありうるということを、私たち は覚悟しておかないといけません。そのような人の死を利用して自らの利益を得ようとする行為は、非常に不謹慎であり許されないことだと私は思っています。

私たちは、恣意的にメディアなどによって選ばれた年間3万件以上の中の一件を受け取っているだけで す。それは、事実の一部であるかもしれませんが、「真実」のすべてではありません。


(続く)

(2011年3月29日http://m-net.jugem.jp/に掲載したものをこちらに移動しました。)

グリーフワークにどう関わるか 

  多くの方が家族や身近な人を亡くされたことに心よりお悔やみを申し上げます。
避難所や地域に、お身内を亡くされた方がいらっしゃったときに、どう接したらいいのかわからないというボランティアの方も多いのではないか。私ごときがいうことではないが、この非常時なので勘弁していただき、個人的に感じていることを率直に書こうと思う。

  まず、グリーフワーク(死の悲嘆からの立ち直り作業)は本人しかできないので、求められるまで押しつけないでほしいということ。周囲の人間が、求められも しないのに手出し口出しをするべきことがらではなく、サポートが必要な場合は、本人がその時期と種類を選ぶ権利がある。主導権は本人にあるべきであって、 周囲にはない。

  話しを聴いてあげたい、少しでも気持ちが楽になるようにしてあげたいと思う気持ちは人として自然な感情の動きだと思う し、もちろん、相手が語ったら静かに聴けばよいと思うが、安易な慰めやアドバイス、理由づけ、とくに、誰かと比較して何に比べればどうだとか、余計な相槌 は不要だと思う。そういうことを言いたくなるのは、だいたい、相手のためというよりも、自分の気持ちを落ち着かせたいためだ。相手の悲嘆を前にして、それ を黙って現実のものとして受け入れることができないがために、なんとか相手の悲嘆を打ち消そうとする。しかし、身近なものを亡くして悲嘆があるのは当然の ことだ。そして、それはどんな理屈をつけられたからといって解消されるようなものではない。

  また、なにがあったのか、など、とくに子どもに素人が根掘り葉掘り訊くことは危ない行為だと思う。身近な人の死などの喪失体験の共有は、専門的な技術と経験、あるいは素人レベルならそれにふさわし い信頼関係があって、はじめてできうる。記憶に蓋をする権利も、当人にはある。無理やりこじ開けるべきではない。

  「メンタリスト」とい う海外ドラマで、不眠症の主人公に、睡眠薬の処方を求められた精神科医が、眠れない理由となった記憶を語らせようとするシーンがある。実は、主人公は過去 に犯罪被害によって妻子を失っているのだが、それは語ろうとせず、つくり話の記憶を語る。なぜあなたの物語を語りたくないのだと訊く精神科医に、主人公が 答える。「それは、私のものだから。」

  シェアをする行為は、あくまで本人がシェアをしたい場合にのみ成り立つ。誰かの、その人だけの物語を、無理やり奪ってはならない。

  
(2011年3月21日http://m-net.jugem.jp/に投稿分をこちらに移動しました。)

『神の慮り(おもんばかり)』 (詩の紹介です)

大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと、
弱さを授かった

より偉大なことができるようにと、
健康をもとめたのに
より良きことができるようにと、
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞讃を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと
失敗を授かった

人生を楽しもうと
たくさんのものを求めたのに
むしろ人生を味わうようにと
シンプルな生活を与えられた

求めたものは何一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられていた
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ


ニューヨーク大学病院リハビリセンターのロビーに掲げられている、ある患者さんの詩
意訳 神渡良平氏
出典:http://warafuto.com/wrafuto16.html