学園ドラマで毎クール、延々と何十年にも渡って繰り返されているのが、熱血教師とモンスターペアレントの対決という構図である。
我が身を犠牲にして子どものことを思う熱血教師、モンスターペアレントの犠牲になって救いようもなく歪んでしまった不気味で哀れな子どもたち、子どもを自己満足の道具にするエゴの権化のような人格破たんした親たち。この構図はすでに古典になりつつあるようだ。
ところで私は、とくに3.11以来、なにかが完全に善であり、なにかが完全に悪であるという主張を見かけたら、そこには必ず嘘があり、なんらかの利益誘導がある可能性があると、考えることにしている。
そもそも、教師が常に善であり、親が常に悪であるという「鬼退治」物語が、なんの疑問も持たれることもなく、お茶の間で、その当の「モンスターペアレント」や「歪んだ子どもたち」に人気なのは、実に皮肉なことである。
もっとも、観ている私たちは「自分だけは」違うと思っている。だからこそ観て楽しめる。そして、だからこそ無意識に、「そんなとんでもない親」になってはいけないという抑圧ボタンが、強固に出来上がって私たちを縛るのである。
メーカーのアフターサービス部門で働いた経験から言うと、もちろん、すべての顧客が正しいことをいっているわけではない。なかには、お互いに笑ってしまうようなほほえましい誤解から生じた苦情もあるし、もちろん強烈で理不尽なクレームもある。
しかし、私は、いまだかつて、少なくともどこかの顧客サービスが、堂々と「モンスターカスタマー」などといって上から目線で顧客を罵倒して自らを美化するのを、見かけたことはないのである。
ときおりに理不尽な要求やクレームなどがあることは、すべての対人サービスにおいては、当然のことなのである。レストランしかり、クリーニング店しかり、乗り物しかり、販売業しかり。
だからといって、その一部の理不尽なクレームを、まるで顧客すべてが理不尽であるかのごとくのすり替えを行って、相手がなにか異議申し立てを行ったら、すぐにそれは「モンスター」であるというレッテル張りを行い、自らにも非があるかどうか検証するプロセスも第三者的な評価もなく相手を断罪するという理不尽さは、まさにこれこそモンスターだといわざるをえない。それは、異議申し立ての内容の検証を一方的に拒否し、相手を見下すことによって自らの正当性を主張する人権侵害の行為であり、まさにそれこそ、理不尽なのである。
その理不尽さに対する抵抗を一瞬で封じる魔法の言葉が『モンスターペアレント』である。
今、学校の現場で、給食、体育、子どもの扱いをめぐって、保護者が子どもの生命の安全を案じて学校に、文科省に、政府に、異議申し立てや改善の要求をしている。
権力は、「モンスター」という魔法を振り回せば、相手が黙ると思っているのかもしれない。そして、私たちもまた、どこかで「モンスター」だといわれるのではないか、どの線までが正当で、どこからがモンスターなのか、びくびくしながら相手の出方を探って焦燥感を強めている。
「モンスター」などという呪文に縛られることほど、ばかげたことはない。いったん、呪縛から逃れてしまえば、そんな呪文にはなんの力もないことがわかる。相手がどういうレッテルを張ろうと、理は理、命は命であり、それよりも重要なことなど、ない。
顧客サービスでは、内容を検証して、相手に理があれば賠償し、理がなければ説明する。そういう訓練を受ける。そしてその訓練は、組織の方針に基づいている。クレームは、十把一絡げのクレームではない。
相手に理がなければ、それを指摘して改善を求める。それは、当然の権利であり、クレームなどではないし、ましてやモンスターなどというレッテル張りに従う必要などまったくない。きちんとした組織なら、苦情を検証して相手に理があれば改善する。民間の組織では、あたりまえのように行われている日常的な行為である。それができないのであれば、問題は苦情を言う側にあるのではなく、受ける側にある。
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