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2011年5月21日土曜日

原発事故の健康被害の予見可能性について考える

今日、たちかぜ裁判の報告集会にいってきました。この裁判は、自殺した自衛隊員の遺族が自衛隊内でのいじめの責任を問うために起こしている裁判です。その詳細についてはまた別の機会にさらに調べてから書きます。今日、書きたいことは、そのケースについてではなく、集会で裁判の担当弁護士さんが裁判の争点として説明されていた『予見可能性』というキーワードと原発事故の関係について感じたことについてです。


今、福島では国による一般市民の20ミリシーベルト許容が大問題となっていて、加えて新たに、原子力安全委員会が、http://www.nsc.go.jp/info/20110520.htmlにあるように、100ミリシーベルトを容認するかのごとくの資料を出すにいたっており、いったいこんなにご都合主義的に安全基準を動かしたりあいまいにしたりすることにどんな意味があるのかということを考えた時、予見可能性というのはひとつの大きなキーワードなのだろうなというのが、今日、改めて自分の頭の中で整理されましたので、それについて書きます。


さて、いじめなどによる自殺の責任を問う裁判では、実際に加害行為を行った本人の責任が問われるのと同時に、組織の責任が問われます。今日の集会のテーマとなった自衛隊内でのいじめ(加害側は「いきすぎた指導」と表現しています)では、自衛隊にもまた、その管理責任が問われています。


そのような際に争点となるのが、その結果(自殺)は予見が可能であったのかどうか、ということのようです。つまり、たとえば加害行為があった場合、それによって自殺するということが、自殺したその人でなければ起こり得なかったような特殊なケースであるのか、あるいは、「そこまでやられたら誰だって死にたくなっても無理はない」通常のケースであるのか、ということらしいのです。今回は、原告は後者であると主張し、自衛隊側はその因果関係を否定しており、裁判所も予見可能性を否定してしまっています。


これを、今回の原発事故から引き起こされる健康被害の予見可能性という面から考えると、現状の放射線量や過去の(とくにチェルノブイリなどの)記録などから照らし合わせて、素人の私でもうすうすわかる(つまり、そうなるかもしれないと予見できる)ことは、おそらく、この先、数年経ったとき、放射能の被曝を原因とした白血病や癌などが増えるのではないかということです。

そうなったらおそらく、集団訴訟などによって、国や東京電力の責任が問われることになるでしょう。そして、その時に必ず因果関係が問われることになるはずですが、その際、「原告が癌や白血病などになることを、国は(東京電力は、原子力安全委員会は)予見し得たのかどうか」が争点になるのだろうなあ、と、集会での報告を聞きながら思いました。


癌や白血病の原因との因果関係を証明するのは、通常であれば非常に難しいのではないかと思います。しかし、今回のような場合、数年後に放射線量の高い地域に居住していた人が白血病や癌になったら、多くの人は、それが原発事故による放射性物質の拡散と因果関係があると思うでしょうし、それは、おそらくあたっている可能性がかなり高いのではないかと思います。

しかし、実際に裁判になったら、因果関係について改めて争われることになるでしょう。仮に、被告側がその責任を認めないということになると、その時には「その可能性が予見できたのかどうか」ということと、あわせて「それについて十分な措置を講じたのかどうか」が争点になってくるのではないかと想像します。(私は法律の専門家ではないので、間違っていたら指摘をお願いします。)


つまり、ポイントは、そうなるんじゃないかとわかっていたんですか、ということと、もうひとつ、じゃあ、それについてちゃんと対策をしたんですか、というおもに二点になるのではないか……。そう考えた時、今回の、原子力安全委員会の書面は、重要な意味をもつことになるのではないかと思いました。


仮に基準値を超えた地域の住民に対して必要な措置(避難を可能とさせること)を行わなかった場合、予見される結果に対して必要な措置をとらなかったということになれば、国や原子力安全委員会、東京電力な どの責任の所在は明らかになります。しかし、そこで基準値に達していなかった場合には、危険とされる基準値に達していないので、因果関係も不明であり、基 準値以下であったからには予見も困難であったので、とくに予防措置等を行う必要はなく、それを行わなかったとしても責任はない、という話しに持っていかれ るのではないでしょうか。


もちろん、こんなことは多くの人には最初からわかっていることだと思いますし、だからこそ、福島の親たちが20ミリシーベルトの撤回を求めて活動をしているのだと思います。それを私のつたない脳みそで、すとんと今後の流れと重ねて理解できたキーワードが、今日の「予見可能性」という言葉だったのでした。


福島の20ミリシーベルトを認めたら、日本全国の20ミリシーベルトを 否定する理由もなくなります。日本は小さな島です。今は他人事だと思っている地域でも、今後は徐々に、その影響が明らかになってくることでしょう。その時 にあわてても、いったん高い基準を受け入れてしまったら、なしくずしになります。そして、そのすでに非常識に高い値が、さらにそれ以上に引き上げられない という保証は、どこにもないのです。


もちろん、20ミリシーベルトを否定したからそれで終わりではないというのは明らかです。より低い値にしてそれで満足すべきではないという議論もよくわかります。


それについては引き続きやっていくとしても、しかし、責任の所在をあいまいにするようなことを、決して許してはいけないと思います。逃げないほうが悪いとか無責任とか、それはやはり、違うと思います。逃げられる環境をつくる責任が、政府には(東京電力には、原子力安全委員会には)あるはずです。


逃げないほうが悪いという論理は、壮絶ないじめにあっても、自殺する方が悪いんだという理屈と通じるところがあります。そんなにいじめられるのなら、学校をやめればよかった、会社をやめればよかった、自衛隊をやめればよかった――そういうことに話をまとめてはいけないと思います。


逃げない人が悪いのではない。逃げる環境をつくる責任は明らかに政府にあります。それが国というのものだと思います。それすらできないのでは、それは、すでに国とはいえません。


たちかぜ裁判を戦っている遺族が最後におっしゃっていました。国を相手に戦うというのはたいへんなことだ。三権分立が機能していない、と。


日本は、12年以上に渡って年間に3万人以上の人が自殺しているのに、それについて、うつ病(に気づかなかった本人や周囲)という自己責任論から一向に抜け出る気配なく、精神保健福祉中心による自殺対策を延々と続けている国です。膨大な国家予算が「本人や周囲の気づき」を促すために、毎年、費やされています。それはちょうど、「危ないと気がついて早く逃げて!」という呼びかけに、よく似ています。 そうやって、本人の自己責任にゆだねられ、結果として死にいたったら、それは「気づかなかった本人の責任」だとでもいうつもりでしょうか。


気づきや精神論では生活を変えることはできません。逃げられないには逃げられないだけの理由がある。それをなんとかすることこそが、国の役割です。福島の20ミリシーベルト問題は、国というもののあり方そのものを問う、私たちみんなの問題です。

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