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2011年11月29日火曜日

なぜサイレント・ウォークなのか(プライベート・バージョン)

サイレント・ウォークをやることになりました。
http://silentwalk2011.blogspot.com/ 『3.11を忘れない。サイレント・ウォーク 2011』

上は一応、告知用のサイトなので、個人的なことをぐたぐたと書くのは望ましくないため、とはいっても個人的に思いがあるからこそやるわけですので、こちらに、もう少し背景や動機などを書きたいと思います。

私にとってのこのアクションのルーツは、天安門事件のときにオーストリアで参加したサイレント・デモです。友人に誘われて参加したのですが、集合場所で主催者の挨拶とオリエンテーションがあり、大声を出さない、走らない、などの注意事項の説明があったあと、参加者に白いカーネーションが渡されました。参加者はそれを持って一緒に街中を静かに行進し、大使館の前にいって、門の前に静かに顕花してその場を去りました。それは、天安門事件のときに亡くなった方を悼み、それに静かに抗議する、といった趣旨のデモでした。シュプレヒコールもなにもない静かなデモですが、抑えているからこそ強い抗議の気持ちの表現方法は、強く心に残りました。

実はそれより数年前に、オーストリアで原発建設計画が持ち上がったとき、当時の現地人の友人たちがみんな反対デモにいくことになり、じゃあ、私もいきたい、といいましたらば、お前は外国人だから下手すりゃ強制送還だからさすがにやめておけ、といわれ、断念したことがありました。それで、若い人を中心とした強い抗議活動などが功を奏し、オーストリアではその後、原発建設は中止されることとなったのです。オーストリアにはそれから30年ほど経ったいまでも、原発がありません。

今回、原発爆発のことがあったとき、しまった・・・、という後悔が強くありました。そういうコミュニティーの中で十代後半を過ごし、また日本では子育て系の地域活動などやってきたのに、そっちには頭がまわっていなかった。ミクロなところにばかり目がいっているうちに、後ろからがつんと殴られたような感じです。今までも、こんな事態にならないように、なにかの活動に参加するチャンスは日本でもいくらでもあったはずなのに、それに気がつかなかった自分の馬鹿さかげんを本当に後悔しました。

チェルノブイリの事故のときに欧州にいて、その頃の欧州の大騒ぎを身近に知っているだけに、今回の原発事故では、正直、ああ、終わった、と思いました。「終わった」というのは、文字通り、もう、ある意味で、世界は(少なくとも日本は)終わりにになってしまった、もうなにもかも遅い、手遅れだ、取り返しがつかないけれど、もうどうすることもできない、ということです。この「終わった」というのは、同じ時期にフランスに留学していた知人も同じことをいっていたので、当時の欧州での事故を身近に経験した人にはもしかしたらある程度共通した反応なのかもしれません。

その「終わった」感は、爆発した原発に、ホースで事故機に水が掛けられる映像を見たとき、決定的なものとなりました。ああ、あんな原始的な方法しかないなんて、ようは危機管理もなにもなかったんだ、ということは、これからもいきあたりばったりの対症療法の積み重ねしかないはずで、それが次の爆発に間に合わなかったら、そのときこそ、本当にもうおしまいだ、と私は思いました。


原発爆発直後から一週間くらいは、私は、自分と、息子と、みんなの(これからまもなく来るかもしれない)死を悼んで、引きこもって泣きながら過ごしました。

西に逃げた人もいましたし、私もそれは考えました。しかし、ヨーロッパの大陸のスケール感からいったら、日本はあまりにも小さすぎました。中国からの黄沙を心配する小さな国土で、その西にいるのか東にいるのかというのは、あまり意味がないように、私には思えたのです。もちろん、放射線の影響力ということからいえば、少しでも遠いに越したことはないのですが、それにしても、地震の活動期に入った日本の各地に原発があって、それがあまりにももろいものなのだ、ということを目の当たりにしては、もはや、ことここにいたっても脱原発の気配のない日本に、この先、安全な場所はないと思いました。この時期、欧州の友人からも受け入れるから逃げて来い、という連絡が頻繁に入り、それも検討したのですが、やはり経済やその他しがらみなど諸事情あって、それは無理でした。一人暮らしの独身で、というのなら別ですが、家族もちともなれば、身一つでぱっと動ける人のほうが少ないのではないでしょうか。昔、チェルノブイリの事故のときに逃げない人を、なぜ逃げないのか不思議に思ったものですが、自分が当事者になるとこういうもんなんだなあ、ということがようやくわかりました。

それで、そうやってgreefの時期にどっぷりとつかって、ある程度、腹がすわってきたので、とにかくもう、事情はどうあれ、ここにいるからには生き延びる可能性を高くするしかない、そのためには思いつくことを片っ端からやろうと思いました。なにしろ、息子や自分の命もかかっているわけですから。

それで、こういう緊急事態に、市民活動とかなんとか悠長なことをいっている余裕はないし、議員に働きかけるよりは議員になったほうが時間が短縮できると思って被選挙権を駆使したりなど、片っ端からできそうなことはしてみたのですが、それは、前提として、その「終わった」感覚があって捨て身になれたからです。原発事故は収束していない。次の爆発があったら、西も東もなく、おそらく私たちみんな、生き残るのは無理だろう、と思っていたわけですから。

その「次の爆発」が(いまのところは)ないまま、まさか半年以上ももつとは、実は思っていませんでした。ですから、当時の菅首相にしても今は病床におられる所長さんにしても、いろいろ責める人はいるのですが、とにかく私個人の感覚としては、現場放棄して逃げなかっただけでも本当に感謝したいです。誰がこんなとんでもない事態のときに責任者でいたいなどと思うでしょうか。彼らが逃げていたら、次の爆発が起きていたかもしれないし、事態はもっと悪くなっていたかもしれません。そうなったら私たちの終わりは、もっと早まっていたと、今でも私は信じています。

前置きが長くなりました。

そんなこんなで、被選挙権の駆使以外にも、いろんな団体にコンタクトしたり勉強したり、ちょっとうちには体の悪い犬がいるので遠出は無理だったのですが、近くで実施されたデモにも参加しました。

でも、デモの冒頭で各種団体のえらそうな人の挨拶があったり、プラカードや団体の横断幕や、左派の政治団体の機関紙に、あたかもその団体の活動であるかのごとくの記事が掲載されたりするとちょっと参加しているこちらとしては釈然としないわけです。別にこっちはその団体の活動に賛同して参加しているわけではなく、生き残るための脱原発、という一点で参加しているだけですから。

それに、一方的に誰かを責める気には、やっぱりなれない。自分だって今まで無関心だった。みんなも無関心だった。その結果、本当に「終わった」になってしまうかもしれない。今、誰かを責めても、もう、世界はもとには戻らない。もっともっと前に、ちゃんと考えたり行動してこなかった自分に、責任がまったくないとは、やはり私には思えませんでした。

それで、12月11日になにかやりたい、という声をかけてもらったときに、政治団体や特定の団体がらみの反対運動なら私は乗らない、そういうのではなくて、女性中心に個人の集まりでやるのならやりたい、といいました。

あと、やはり、原発だけではなく、あの日、地震の直後に、そのときたまたまいた県のNPOセンター(ぽぽら)でテレビをつけたとき、画面の中で、リアルタイムでつなみの前の道路を車が通っていく、逃げてほしいのに声が届かない、なすすべもないあのショック。そして被災地支援にいった友人を通して聞く現状の深刻さなど、やはり、直接に地震やつなみの被害を受けたり、身近な人を亡くしていなかったとしても、ある意味ではやはり残された立場である私たちみんなにとって、個々で差はあるにせよ、これがショックでないわけがないと思うし、私たちもまた、深く傷ついているのだと思います。だから、こぶしを振り上げたり、誰かを責めたり、そういうことの前に、いったんちゃんと悼むということをやらないと、先に進めないような気がしていました。

そして、脱原発派とか、推進派とか、そういうカテゴリわけではなくて、やはりそれぞれの視点が違ったり意見は対立したとしても、人類で初の、このとんでもない難問に、すべての人が初体験のぶっつけ本番で向き合っていかなければならないこの困難な時代に一緒に日本に生きていて、まあはっきりいってこの緊急事態に仲間割れしてる場合ではないのではないかと思いますし、いってみれば、日本人全員が、世界のためにもこのとんでもない課題の解決をなんとしてもしなければいけない責任のある立場なわけですから、とにかく、意見の違いは違いとして別途議論するとしても、基本は同じ方向向いて連帯しましょう、その上で、違いは違いとして冷静に議論して、みんなにとってよりよい道を地道に一緒にみつけていきましょう、というのがいいんじゃないかと思うわけです。

なので、いいたいことはそれぞれ多々あると思うのですが、それは各自でいつでもどこでも街頭演説もできるし、主張の機会は、このようなブログも含めて手段は多様にあるわけですから、それはその日はなしにしましょう、ということにしました。

これが、デモではなく、サイレント・ウォーク にしたかった、私にとっての企画にいたるまでのおおまかなプロセスと理由です。