学園ドラマで毎クール、延々と何十年にも渡って繰り返されているのが、熱血教師とモンスターペアレントの対決という構図である。
我が身を犠牲にして子どものことを思う熱血教師、モンスターペアレントの犠牲になって救いようもなく歪んでしまった不気味で哀れな子どもたち、子どもを自己満足の道具にするエゴの権化のような人格破たんした親たち。この構図はすでに古典になりつつあるようだ。
ところで私は、とくに3.11以来、なにかが完全に善であり、なにかが完全に悪であるという主張を見かけたら、そこには必ず嘘があり、なんらかの利益誘導がある可能性があると、考えることにしている。
そもそも、教師が常に善であり、親が常に悪であるという「鬼退治」物語が、なんの疑問も持たれることもなく、お茶の間で、その当の「モンスターペアレント」や「歪んだ子どもたち」に人気なのは、実に皮肉なことである。
もっとも、観ている私たちは「自分だけは」違うと思っている。だからこそ観て楽しめる。そして、だからこそ無意識に、「そんなとんでもない親」になってはいけないという抑圧ボタンが、強固に出来上がって私たちを縛るのである。
メーカーのアフターサービス部門で働いた経験から言うと、もちろん、すべての顧客が正しいことをいっているわけではない。なかには、お互いに笑ってしまうようなほほえましい誤解から生じた苦情もあるし、もちろん強烈で理不尽なクレームもある。
しかし、私は、いまだかつて、少なくともどこかの顧客サービスが、堂々と「モンスターカスタマー」などといって上から目線で顧客を罵倒して自らを美化するのを、見かけたことはないのである。
ときおりに理不尽な要求やクレームなどがあることは、すべての対人サービスにおいては、当然のことなのである。レストランしかり、クリーニング店しかり、乗り物しかり、販売業しかり。
だからといって、その一部の理不尽なクレームを、まるで顧客すべてが理不尽であるかのごとくのすり替えを行って、相手がなにか異議申し立てを行ったら、すぐにそれは「モンスター」であるというレッテル張りを行い、自らにも非があるかどうか検証するプロセスも第三者的な評価もなく相手を断罪するという理不尽さは、まさにこれこそモンスターだといわざるをえない。それは、異議申し立ての内容の検証を一方的に拒否し、相手を見下すことによって自らの正当性を主張する人権侵害の行為であり、まさにそれこそ、理不尽なのである。
その理不尽さに対する抵抗を一瞬で封じる魔法の言葉が『モンスターペアレント』である。
今、学校の現場で、給食、体育、子どもの扱いをめぐって、保護者が子どもの生命の安全を案じて学校に、文科省に、政府に、異議申し立てや改善の要求をしている。
権力は、「モンスター」という魔法を振り回せば、相手が黙ると思っているのかもしれない。そして、私たちもまた、どこかで「モンスター」だといわれるのではないか、どの線までが正当で、どこからがモンスターなのか、びくびくしながら相手の出方を探って焦燥感を強めている。
「モンスター」などという呪文に縛られることほど、ばかげたことはない。いったん、呪縛から逃れてしまえば、そんな呪文にはなんの力もないことがわかる。相手がどういうレッテルを張ろうと、理は理、命は命であり、それよりも重要なことなど、ない。
顧客サービスでは、内容を検証して、相手に理があれば賠償し、理がなければ説明する。そういう訓練を受ける。そしてその訓練は、組織の方針に基づいている。クレームは、十把一絡げのクレームではない。
相手に理がなければ、それを指摘して改善を求める。それは、当然の権利であり、クレームなどではないし、ましてやモンスターなどというレッテル張りに従う必要などまったくない。きちんとした組織なら、苦情を検証して相手に理があれば改善する。民間の組織では、あたりまえのように行われている日常的な行為である。それができないのであれば、問題は苦情を言う側にあるのではなく、受ける側にある。
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2011年5月26日木曜日
2011年5月24日火曜日
『風評被害』について考える
原発事故直後から風評被害がいわれはじめ、最初は私も、現場が混乱しているからだと思っていました。しかし、測定をしない、産地をあいまいにするなど、明らかに意図的な実態隠しを疑わせる情報が入ってくるようになり、改めて、このことを整理してみることにしました。
風評被害とはなんぞやと素直に考えると、根拠のないうわさ話などによって誤解が生じ、それによって消費者の購買行動などが影響を受けて、あるものが売れなくなるようなことがイメージされます。たとえば、オーストラリア(コアラのいるところ)で地震がおきてしばらくは渡航しないほうがいいといったようなことが起きた時に、たんに国名の音が似ているオーストリア(ヨーロッパの)への観光客が減ったとしたら、これは風評被害といえると思います。まったく関係がないのにとばっちりを受けた。これが風評被害でしょう。
では、今の日本でいわれている「風評被害」がこのような「とばっちり」にあたるかというと、そんなはずはないのは明らかです。実際に放射性物質が拡散しているという事実に基づいていて、その健康被害等の甚大な影響もまた過去の事例等から報告されていて、その放射性物質が入っている可能性がより高い食品等を避けるとしたら、それは消費者側から見ればたんなる「危険回避」です。
これが風評被害だというのなら、生肉を出して食中毒を出したチェーン焼肉屋の他店舗の売り上げが下がるのも風評被害でしょうか? 地盤沈下を起こした住宅団地の家が売れなくなるのも風評被害でしょうか? 過去に公約を破った政治家が選挙に落ちるのも風評被害でしょうか?
ごまかしてはいけません。原発が爆発した。放射性物質が拡散し続けている。それは紛れもない事実で、その放射性物質が日本中で計測されている。これらは事実であってうわさ話や誤解、嘘ではありません。事実に基づいて危険性を判断して回避するのは、生き物として当然の権利です。それはまさに、生きる権利そのものです。
今、マスコミが風評被害という言葉を乱発し、行政機関までがそのような言葉でごまかしを拡散していますが、それこそが、私たちが受けている根拠のない安全神話による風評被害です。それは、実際に数年後に、健康被害という目に見える実害として表面化する可能性があります。
そもそも、被害だというのなら、加害があるはずです。では、今、世間でいわれている風評被害を引きおこしている「加害者」は、いったい誰だというのでしょうか?
テレビが、新聞が、医療機関が、学校が、企業が、行政が、国が、風評被害だといって危険性のあるものを「無知な市民に」食べさせようというキャンペーンをはったら、そのすべては記録され、数年後にきちんとその「安全風評の実害」の責任をとってもらわなければなりません。あの時はあのときだったなどという言い訳を許してはいけない。わからないことを断言するのはデマです。知らないことは知らない、わからないことはわからないといわなければいけない。間違ったことをいったのなら訂正しなければならない。わかりもしないことをわかったようなことをいって、間違ったことをいったのをごまかして上塗りをして、それよって市民の、子どもたちの健康被害を招いたら、あのときはわからなかったでは済まされません。
ですから、様々なところで出される「安全です系」の書面などは、すべて日付をメモして取っておいた方がよいと思います。また、役所や行政機関に電話をかけて安全だと応える人がいたら、日付と担当部署(部・課・担当)とフルネームを必ず聞いて、内容と一緒に記録しておきます。きちんと責任の所在を明らかにしていく。それが行政とのやりとりの仕方のコツです。
また、それらの作物などを消費することが被災地を支援するかのごとくのキャンペーンが行われていますが、風評被害だというレッテル貼りは、実害による被害弁償を難しくさせる危険性があると思います。
風評ではなく実害であれば、きちんと賠償責任を求めなくてはなりません。ところが、風評による被害だと決めつけてしまえば、誰も責任を取らなくていいという話しになります。風評には責任の所在がないからです。
政治家などが風評被害のアピールをしたとしたら、それは、行政による被害弁償の責任逃れである可能性があります。実際、原発の立地などには行政が許可を出しているわけで、当然、政策的な誘致などがあったはずで、放射性物質拡散による農産物等被害が生じたとしたら、それは行政にもおおいに責任があるはずです。もちろん、それを決議してきた議員のみなさんにも責任があります。それはきちんと責任の所在を明らかにしたうえで責任をとってもらわないといけません。そのためには、あいまいな「風評被害」などという言葉でごまかされないことが重要だと思います。
風評被害とはなんぞやと素直に考えると、根拠のないうわさ話などによって誤解が生じ、それによって消費者の購買行動などが影響を受けて、あるものが売れなくなるようなことがイメージされます。たとえば、オーストラリア(コアラのいるところ)で地震がおきてしばらくは渡航しないほうがいいといったようなことが起きた時に、たんに国名の音が似ているオーストリア(ヨーロッパの)への観光客が減ったとしたら、これは風評被害といえると思います。まったく関係がないのにとばっちりを受けた。これが風評被害でしょう。
では、今の日本でいわれている「風評被害」がこのような「とばっちり」にあたるかというと、そんなはずはないのは明らかです。実際に放射性物質が拡散しているという事実に基づいていて、その健康被害等の甚大な影響もまた過去の事例等から報告されていて、その放射性物質が入っている可能性がより高い食品等を避けるとしたら、それは消費者側から見ればたんなる「危険回避」です。
これが風評被害だというのなら、生肉を出して食中毒を出したチェーン焼肉屋の他店舗の売り上げが下がるのも風評被害でしょうか? 地盤沈下を起こした住宅団地の家が売れなくなるのも風評被害でしょうか? 過去に公約を破った政治家が選挙に落ちるのも風評被害でしょうか?
ごまかしてはいけません。原発が爆発した。放射性物質が拡散し続けている。それは紛れもない事実で、その放射性物質が日本中で計測されている。これらは事実であってうわさ話や誤解、嘘ではありません。事実に基づいて危険性を判断して回避するのは、生き物として当然の権利です。それはまさに、生きる権利そのものです。
今、マスコミが風評被害という言葉を乱発し、行政機関までがそのような言葉でごまかしを拡散していますが、それこそが、私たちが受けている根拠のない安全神話による風評被害です。それは、実際に数年後に、健康被害という目に見える実害として表面化する可能性があります。
そもそも、被害だというのなら、加害があるはずです。では、今、世間でいわれている風評被害を引きおこしている「加害者」は、いったい誰だというのでしょうか?
テレビが、新聞が、医療機関が、学校が、企業が、行政が、国が、風評被害だといって危険性のあるものを「無知な市民に」食べさせようというキャンペーンをはったら、そのすべては記録され、数年後にきちんとその「安全風評の実害」の責任をとってもらわなければなりません。あの時はあのときだったなどという言い訳を許してはいけない。わからないことを断言するのはデマです。知らないことは知らない、わからないことはわからないといわなければいけない。間違ったことをいったのなら訂正しなければならない。わかりもしないことをわかったようなことをいって、間違ったことをいったのをごまかして上塗りをして、それよって市民の、子どもたちの健康被害を招いたら、あのときはわからなかったでは済まされません。
ですから、様々なところで出される「安全です系」の書面などは、すべて日付をメモして取っておいた方がよいと思います。また、役所や行政機関に電話をかけて安全だと応える人がいたら、日付と担当部署(部・課・担当)とフルネームを必ず聞いて、内容と一緒に記録しておきます。きちんと責任の所在を明らかにしていく。それが行政とのやりとりの仕方のコツです。
また、それらの作物などを消費することが被災地を支援するかのごとくのキャンペーンが行われていますが、風評被害だというレッテル貼りは、実害による被害弁償を難しくさせる危険性があると思います。
風評ではなく実害であれば、きちんと賠償責任を求めなくてはなりません。ところが、風評による被害だと決めつけてしまえば、誰も責任を取らなくていいという話しになります。風評には責任の所在がないからです。
政治家などが風評被害のアピールをしたとしたら、それは、行政による被害弁償の責任逃れである可能性があります。実際、原発の立地などには行政が許可を出しているわけで、当然、政策的な誘致などがあったはずで、放射性物質拡散による農産物等被害が生じたとしたら、それは行政にもおおいに責任があるはずです。もちろん、それを決議してきた議員のみなさんにも責任があります。それはきちんと責任の所在を明らかにしたうえで責任をとってもらわないといけません。そのためには、あいまいな「風評被害」などという言葉でごまかされないことが重要だと思います。
2011年5月23日月曜日
『逃げる』について考える
逃げるべきか逃げざるべきか。同じことを前に書きました。
http://d.hatena.ne.jp/shinsaigo/20110412/1302565889
ブログ投稿の日付を見ると4月12日。もう、一カ月以上も前のことだったのかとふりかえると、今の状況が一カ月以上経っていまだ根本的な改善がないどころか、むしろ悪化しているようであり、その中で、私たちみんなが、あのボロボロの廃屋から拡散し続ける放射性物質に囲まれて日々の生活を送りながら、それを「なかったこと」のようにふるまいながら暮らす他になすすべもなく、これからの台風シーズンを前に、まさにゆでガエル状態に陥っているのだという残念な事実を自覚せざるをえません。
前にも書いたのですが、私は以前、民主党のホームページのご意見欄から、内閣総理大臣菅直人氏宛てに嘆願書を送っています。その後、いまはとにかく、必死に手立てを講じてくれているのだと信じ、とにかく今はその日がくるまで待とうと覚悟を決めたのでした。
「その日」というのは、つまり、自分たち日本に住んでいる人たちが、もちろん一度に、ということではないにしても、年齢などを考慮しながら順次、海外などに可能な限り一時的あるいは移民として避難することが可能となる日、ということです。
以下に、その文の全文をコピーしました。(2011年3月16日付)
________________________________________________
原子力発電所事故に関連した国民の国外退避に関する嘆願について
私は、栃木県宇都宮市に住む14歳の子どもの母親(46歳)で、チェルノブイリの原発事故の時に、オーストリアのウイーンに住んでいました。チェルノブイリの事故が起きた当時のソヴィエトの、広大な.国土の片隅で起きた(災害などと連動していない平時の)事故は、世界を震撼させました。そして、数年に渡ってヨーロッパ全土で被爆が強く懸念され、ヨーロッパ中、むしろ全世界が被爆に対する危機感を共有していました。その広域的な影響は甚大なもので、鮮明に記憶に刻まれています。
そして、同レベルの事故に発展しかねない今回の福島第一原発事故の危機にある日本にいて、当時のソヴィエトの広大な国土、ヨーロッパ全体のスケールと比較すると、日本の国土はあまりにも小さいのです。中国からの黄砂を心配しなければならないような日本で、20キロ、30キロのレベルで核被爆を議論することは、果たして現実的なことなのでしょうか。
この小さな国土にいる私たち日本国民は、今、おそらく全員が、被爆の危機にさらされています。そして、このような事態に至っても、子どもたちは、被爆の危険性がある中を、学校に通っています。
国外の友人たちからは、刻一刻と変化する情勢のなかで、早く決断して国外退避せよと、立てつづけに連絡が入っています。それが、私たち日本の、世界から見た客観的な状況です。
今回は、災害被災があまりにも甚大であったため、世間では、原子力発電所の事故は、災害に付随するものと受け止められているふしがありますが、災害被災と原子力発電所の事故は、ことここにいたっては、まったく別個の問題として考え、対応すべきではないでしょうか。私たちは今まさに最悪の被爆危機の真っただ中で日々の生活を送っています。これは過去ではなく、現在、進行中のできごとです。
私は母として、また、世界で唯一の被爆国の国民の一人として、今までそのことについて行動してこなかった自らを恥じています。
しかし、責任の追及や今後の課題を検討する時期は、おそらくもっと後にくることでしょう。今は、ただ、私は自分の子どもを含む、日本の未来を担う子どもたち、そして私たちみんなを、被爆の危機から救っていただきたいだけです。未来に後悔を残さないためにも、一刻も早い対応が今、必要であり、それができるのは内閣総理大臣だけです。ことが安全に終結する可能性ももちろんあると思いますが、そうではない可能性もゼロではありません。希望的観測などなんの役にもたたないことを、私たちは学んだばかりです。何ごともなく済めば、十年後に笑いながら苦労話を語りあえばよいだけです。
以下に、内閣総理大臣への具体的なお願いを書きました。どうぞよろしくお願いいたします。
2011年3月16日
氏名・住所・連絡先
日本国内閣総理大臣菅直人様、
嘆願書
以下について、一刻も早い対応をとられますよう嘆願いたします。
1.被爆の危険を最小限にとどめるために日本全体に自宅待機を命令してください。
2.国民と在住者が一時的に国外退避できるように各国に協力を要請し、国外に一時避難させる手立てを講じてください。
3.日本国民および在住者が核被爆難民として国外に受け入れられるようにしてください。
4.日本国民および在住者が緊急避難に際してすみやかに移動できる手段を講じてください。
以上
_(送付文書終わり)____________________________
私は、当初から基本的に日本の中で移動するだけでは間に合わないので、海外にも(とくに乳幼児や妊婦など)一時的にであってもよいので避難させるべきだと考えていました。しかし、よほどの経済力がない限りは、海外にいっても滞在許可には期限がありますし、外国人は労働も自由にできないので長期滞在は困難ですので、やはりそこは、国が海外と交渉しないと個別対応では解決にならないと思いました。また、若いころに海外で暮らした経験からも、やはり一人で逃げるのではなく、みんなで(集団で)逃げたほうが生存率が高そうだ、とも思っていました。これを書いた当時は、事故の全容が明らかになっておらず(もっとも今も明らかにはなっていませんが)、テレビは津波の映像一色でという時期でした。もともとは、これをもとに署名活動を行ってから送ろうと思っていたのですが、最終的には直接、民主党のホームページから送りました。
これを書いたとき、海外の友人からはさっさと決断して逃げて来いとメールが次々と届いていて、正直、私もそうすべきか迷いましたし、それは今にいたるまで、常に選択肢のひとつとして捨ててはいません。しかし、国による避難措置がとられればそれが一番よいわけで、なにより、数年前から自殺のことに関わってきた経験からも、生き残りには生き残りのつらさがあることも承知していたので、やはりみんなで一緒に生き延びる道を選びたい、それが可能になるまで今いる場所で働きかけを行っていこうと、このメールを送った時に決めたのです。
しかし、それから二カ月以上が経った今、結局、そのような政府による行動は行われなかったし、福島から他地域への移動すら十分に支援されていないという事実を前にしては、おそらくこれからも行われることはないであろうということは、残念ながら、事実として受け止めざるをえません。
逃げるということを考えると、親しい人や仲間、お世話になった人、今まで築き上げてきた人や地域との関係など、失うものの大きさに立ちすくみます。現実的な話しであれば、じゃあ、この荷物はどうするのかとか、仕事はどうするのかとか、子どもの学校は友だちは、など、生活というものがいかに多くの人やことがら、ものとの関係性の中で成り立っているのかが改めてわかり、それを捨て去ることのエネルギーの膨大さに、茫然としてしまいます。そんなエネルギーがとても、わかない。時間もない。どうしたらいいのかわからない。
しかし、そんな膨大なエネルギーを費やし、多くのものを失ってもなお、やはり生き物としては逃げざるをえない場合があると思いますし、その決断を、私自身も毎日、迫られ続けています。
今、原発のことに関連して一緒に活動している仲間がいるのですが、仲間が逃げることになったら全力で応援し(だってそれはここが危ないということですから)、そこで足場を固めて、順次、こちらからも呼んでもらおうかと思っていますし、仲間ともそういう話しをしています。
いっせいのタイミングで逃げるのは政府などによる強制避難でもない限りまず難しいし、まっさらの未知の土地に移住するよりは、仲間がいる土地に移住したほうが、おそらくはるかに地域になじみやすいと思います。いっそ、誰か代表を立てて先に移住してもらって受け入れ態勢を整えてもらって順次移住する、くらいのことはやってもいいのかもしれないと、最近は考えるようになってきています。
http://d.hatena.ne.jp/shinsaigo/20110412/1302565889
ブログ投稿の日付を見ると4月12日。もう、一カ月以上も前のことだったのかとふりかえると、今の状況が一カ月以上経っていまだ根本的な改善がないどころか、むしろ悪化しているようであり、その中で、私たちみんなが、あのボロボロの廃屋から拡散し続ける放射性物質に囲まれて日々の生活を送りながら、それを「なかったこと」のようにふるまいながら暮らす他になすすべもなく、これからの台風シーズンを前に、まさにゆでガエル状態に陥っているのだという残念な事実を自覚せざるをえません。
前にも書いたのですが、私は以前、民主党のホームページのご意見欄から、内閣総理大臣菅直人氏宛てに嘆願書を送っています。その後、いまはとにかく、必死に手立てを講じてくれているのだと信じ、とにかく今はその日がくるまで待とうと覚悟を決めたのでした。
「その日」というのは、つまり、自分たち日本に住んでいる人たちが、もちろん一度に、ということではないにしても、年齢などを考慮しながら順次、海外などに可能な限り一時的あるいは移民として避難することが可能となる日、ということです。
以下に、その文の全文をコピーしました。(2011年3月16日付)
________________________________________________
原子力発電所事故に関連した国民の国外退避に関する嘆願について
私は、栃木県宇都宮市に住む14歳の子どもの母親(46歳)で、チェルノブイリの原発事故の時に、オーストリアのウイーンに住んでいました。チェルノブイリの事故が起きた当時のソヴィエトの、広大な.国土の片隅で起きた(災害などと連動していない平時の)事故は、世界を震撼させました。そして、数年に渡ってヨーロッパ全土で被爆が強く懸念され、ヨーロッパ中、むしろ全世界が被爆に対する危機感を共有していました。その広域的な影響は甚大なもので、鮮明に記憶に刻まれています。
そして、同レベルの事故に発展しかねない今回の福島第一原発事故の危機にある日本にいて、当時のソヴィエトの広大な国土、ヨーロッパ全体のスケールと比較すると、日本の国土はあまりにも小さいのです。中国からの黄砂を心配しなければならないような日本で、20キロ、30キロのレベルで核被爆を議論することは、果たして現実的なことなのでしょうか。
この小さな国土にいる私たち日本国民は、今、おそらく全員が、被爆の危機にさらされています。そして、このような事態に至っても、子どもたちは、被爆の危険性がある中を、学校に通っています。
国外の友人たちからは、刻一刻と変化する情勢のなかで、早く決断して国外退避せよと、立てつづけに連絡が入っています。それが、私たち日本の、世界から見た客観的な状況です。
今回は、災害被災があまりにも甚大であったため、世間では、原子力発電所の事故は、災害に付随するものと受け止められているふしがありますが、災害被災と原子力発電所の事故は、ことここにいたっては、まったく別個の問題として考え、対応すべきではないでしょうか。私たちは今まさに最悪の被爆危機の真っただ中で日々の生活を送っています。これは過去ではなく、現在、進行中のできごとです。
私は母として、また、世界で唯一の被爆国の国民の一人として、今までそのことについて行動してこなかった自らを恥じています。
しかし、責任の追及や今後の課題を検討する時期は、おそらくもっと後にくることでしょう。今は、ただ、私は自分の子どもを含む、日本の未来を担う子どもたち、そして私たちみんなを、被爆の危機から救っていただきたいだけです。未来に後悔を残さないためにも、一刻も早い対応が今、必要であり、それができるのは内閣総理大臣だけです。ことが安全に終結する可能性ももちろんあると思いますが、そうではない可能性もゼロではありません。希望的観測などなんの役にもたたないことを、私たちは学んだばかりです。何ごともなく済めば、十年後に笑いながら苦労話を語りあえばよいだけです。
以下に、内閣総理大臣への具体的なお願いを書きました。どうぞよろしくお願いいたします。
2011年3月16日
氏名・住所・連絡先
日本国内閣総理大臣菅直人様、
嘆願書
以下について、一刻も早い対応をとられますよう嘆願いたします。
1.被爆の危険を最小限にとどめるために日本全体に自宅待機を命令してください。
2.国民と在住者が一時的に国外退避できるように各国に協力を要請し、国外に一時避難させる手立てを講じてください。
3.日本国民および在住者が核被爆難民として国外に受け入れられるようにしてください。
4.日本国民および在住者が緊急避難に際してすみやかに移動できる手段を講じてください。
以上
_(送付文書終わり)____________________________
私は、当初から基本的に日本の中で移動するだけでは間に合わないので、海外にも(とくに乳幼児や妊婦など)一時的にであってもよいので避難させるべきだと考えていました。しかし、よほどの経済力がない限りは、海外にいっても滞在許可には期限がありますし、外国人は労働も自由にできないので長期滞在は困難ですので、やはりそこは、国が海外と交渉しないと個別対応では解決にならないと思いました。また、若いころに海外で暮らした経験からも、やはり一人で逃げるのではなく、みんなで(集団で)逃げたほうが生存率が高そうだ、とも思っていました。これを書いた当時は、事故の全容が明らかになっておらず(もっとも今も明らかにはなっていませんが)、テレビは津波の映像一色でという時期でした。もともとは、これをもとに署名活動を行ってから送ろうと思っていたのですが、最終的には直接、民主党のホームページから送りました。
これを書いたとき、海外の友人からはさっさと決断して逃げて来いとメールが次々と届いていて、正直、私もそうすべきか迷いましたし、それは今にいたるまで、常に選択肢のひとつとして捨ててはいません。しかし、国による避難措置がとられればそれが一番よいわけで、なにより、数年前から自殺のことに関わってきた経験からも、生き残りには生き残りのつらさがあることも承知していたので、やはりみんなで一緒に生き延びる道を選びたい、それが可能になるまで今いる場所で働きかけを行っていこうと、このメールを送った時に決めたのです。
しかし、それから二カ月以上が経った今、結局、そのような政府による行動は行われなかったし、福島から他地域への移動すら十分に支援されていないという事実を前にしては、おそらくこれからも行われることはないであろうということは、残念ながら、事実として受け止めざるをえません。
逃げるということを考えると、親しい人や仲間、お世話になった人、今まで築き上げてきた人や地域との関係など、失うものの大きさに立ちすくみます。現実的な話しであれば、じゃあ、この荷物はどうするのかとか、仕事はどうするのかとか、子どもの学校は友だちは、など、生活というものがいかに多くの人やことがら、ものとの関係性の中で成り立っているのかが改めてわかり、それを捨て去ることのエネルギーの膨大さに、茫然としてしまいます。そんなエネルギーがとても、わかない。時間もない。どうしたらいいのかわからない。
しかし、そんな膨大なエネルギーを費やし、多くのものを失ってもなお、やはり生き物としては逃げざるをえない場合があると思いますし、その決断を、私自身も毎日、迫られ続けています。
今、原発のことに関連して一緒に活動している仲間がいるのですが、仲間が逃げることになったら全力で応援し(だってそれはここが危ないということですから)、そこで足場を固めて、順次、こちらからも呼んでもらおうかと思っていますし、仲間ともそういう話しをしています。
いっせいのタイミングで逃げるのは政府などによる強制避難でもない限りまず難しいし、まっさらの未知の土地に移住するよりは、仲間がいる土地に移住したほうが、おそらくはるかに地域になじみやすいと思います。いっそ、誰か代表を立てて先に移住してもらって受け入れ態勢を整えてもらって順次移住する、くらいのことはやってもいいのかもしれないと、最近は考えるようになってきています。
2011年5月21日土曜日
原発事故の健康被害の予見可能性について考える
今日、たちかぜ裁判の報告集会にいってきました。この裁判は、自殺した自衛隊員の遺族が自衛隊内でのいじめの責任を問うために起こしている裁判です。その詳細についてはまた別の機会にさらに調べてから書きます。今日、書きたいことは、そのケースについてではなく、集会で裁判の担当弁護士さんが裁判の争点として説明されていた『予見可能性』というキーワードと原発事故の関係について感じたことについてです。
今、福島では国による一般市民の20ミリシーベルト許容が大問題となっていて、加えて新たに、原子力安全委員会が、http://www.nsc.go.jp/info/20110520.htmlにあるように、100ミリシーベルトを容認するかのごとくの資料を出すにいたっており、いったいこんなにご都合主義的に安全基準を動かしたりあいまいにしたりすることにどんな意味があるのかということを考えた時、予見可能性というのはひとつの大きなキーワードなのだろうなというのが、今日、改めて自分の頭の中で整理されましたので、それについて書きます。
さて、いじめなどによる自殺の責任を問う裁判では、実際に加害行為を行った本人の責任が問われるのと同時に、組織の責任が問われます。今日の集会のテーマとなった自衛隊内でのいじめ(加害側は「いきすぎた指導」と表現しています)では、自衛隊にもまた、その管理責任が問われています。
そのような際に争点となるのが、その結果(自殺)は予見が可能であったのかどうか、ということのようです。つまり、たとえば加害行為があった場合、それによって自殺するということが、自殺したその人でなければ起こり得なかったような特殊なケースであるのか、あるいは、「そこまでやられたら誰だって死にたくなっても無理はない」通常のケースであるのか、ということらしいのです。今回は、原告は後者であると主張し、自衛隊側はその因果関係を否定しており、裁判所も予見可能性を否定してしまっています。
これを、今回の原発事故から引き起こされる健康被害の予見可能性という面から考えると、現状の放射線量や過去の(とくにチェルノブイリなどの)記録などから照らし合わせて、素人の私でもうすうすわかる(つまり、そうなるかもしれないと予見できる)ことは、おそらく、この先、数年経ったとき、放射能の被曝を原因とした白血病や癌などが増えるのではないかということです。
そうなったらおそらく、集団訴訟などによって、国や東京電力の責任が問われることになるでしょう。そして、その時に必ず因果関係が問われることになるはずですが、その際、「原告が癌や白血病などになることを、国は(東京電力は、原子力安全委員会は)予見し得たのかどうか」が争点になるのだろうなあ、と、集会での報告を聞きながら思いました。
癌や白血病の原因との因果関係を証明するのは、通常であれば非常に難しいのではないかと思います。しかし、今回のような場合、数年後に放射線量の高い地域に居住していた人が白血病や癌になったら、多くの人は、それが原発事故による放射性物質の拡散と因果関係があると思うでしょうし、それは、おそらくあたっている可能性がかなり高いのではないかと思います。
しかし、実際に裁判になったら、因果関係について改めて争われることになるでしょう。仮に、被告側がその責任を認めないということになると、その時には「その可能性が予見できたのかどうか」ということと、あわせて「それについて十分な措置を講じたのかどうか」が争点になってくるのではないかと想像します。(私は法律の専門家ではないので、間違っていたら指摘をお願いします。)
つまり、ポイントは、そうなるんじゃないかとわかっていたんですか、ということと、もうひとつ、じゃあ、それについてちゃんと対策をしたんですか、というおもに二点になるのではないか……。そう考えた時、今回の、原子力安全委員会の書面は、重要な意味をもつことになるのではないかと思いました。
仮に基準値を超えた地域の住民に対して必要な措置(避難を可能とさせること)を行わなかった場合、予見される結果に対して必要な措置をとらなかったということになれば、国や原子力安全委員会、東京電力な どの責任の所在は明らかになります。しかし、そこで基準値に達していなかった場合には、危険とされる基準値に達していないので、因果関係も不明であり、基 準値以下であったからには予見も困難であったので、とくに予防措置等を行う必要はなく、それを行わなかったとしても責任はない、という話しに持っていかれ るのではないでしょうか。
もちろん、こんなことは多くの人には最初からわかっていることだと思いますし、だからこそ、福島の親たちが20ミリシーベルトの撤回を求めて活動をしているのだと思います。それを私のつたない脳みそで、すとんと今後の流れと重ねて理解できたキーワードが、今日の「予見可能性」という言葉だったのでした。
福島の20ミリシーベルトを認めたら、日本全国の20ミリシーベルトを 否定する理由もなくなります。日本は小さな島です。今は他人事だと思っている地域でも、今後は徐々に、その影響が明らかになってくることでしょう。その時 にあわてても、いったん高い基準を受け入れてしまったら、なしくずしになります。そして、そのすでに非常識に高い値が、さらにそれ以上に引き上げられない という保証は、どこにもないのです。
もちろん、20ミリシーベルトを否定したからそれで終わりではないというのは明らかです。より低い値にしてそれで満足すべきではないという議論もよくわかります。
それについては引き続きやっていくとしても、しかし、責任の所在をあいまいにするようなことを、決して許してはいけないと思います。逃げないほうが悪いとか無責任とか、それはやはり、違うと思います。逃げられる環境をつくる責任が、政府には(東京電力には、原子力安全委員会には)あるはずです。
逃げないほうが悪いという論理は、壮絶ないじめにあっても、自殺する方が悪いんだという理屈と通じるところがあります。そんなにいじめられるのなら、学校をやめればよかった、会社をやめればよかった、自衛隊をやめればよかった――そういうことに話をまとめてはいけないと思います。
逃げない人が悪いのではない。逃げる環境をつくる責任は明らかに政府にあります。それが国というのものだと思います。それすらできないのでは、それは、すでに国とはいえません。
たちかぜ裁判を戦っている遺族が最後におっしゃっていました。国を相手に戦うというのはたいへんなことだ。三権分立が機能していない、と。
日本は、12年以上に渡って年間に3万人以上の人が自殺しているのに、それについて、うつ病(に気づかなかった本人や周囲)という自己責任論から一向に抜け出る気配なく、精神保健福祉中心による自殺対策を延々と続けている国です。膨大な国家予算が「本人や周囲の気づき」を促すために、毎年、費やされています。それはちょうど、「危ないと気がついて早く逃げて!」という呼びかけに、よく似ています。 そうやって、本人の自己責任にゆだねられ、結果として死にいたったら、それは「気づかなかった本人の責任」だとでもいうつもりでしょうか。
気づきや精神論では生活を変えることはできません。逃げられないには逃げられないだけの理由がある。それをなんとかすることこそが、国の役割です。福島の20ミリシーベルト問題は、国というもののあり方そのものを問う、私たちみんなの問題です。
今、福島では国による一般市民の20ミリシーベルト許容が大問題となっていて、加えて新たに、原子力安全委員会が、http://www.nsc.go.jp/info/20110520.htmlにあるように、100ミリシーベルトを容認するかのごとくの資料を出すにいたっており、いったいこんなにご都合主義的に安全基準を動かしたりあいまいにしたりすることにどんな意味があるのかということを考えた時、予見可能性というのはひとつの大きなキーワードなのだろうなというのが、今日、改めて自分の頭の中で整理されましたので、それについて書きます。
さて、いじめなどによる自殺の責任を問う裁判では、実際に加害行為を行った本人の責任が問われるのと同時に、組織の責任が問われます。今日の集会のテーマとなった自衛隊内でのいじめ(加害側は「いきすぎた指導」と表現しています)では、自衛隊にもまた、その管理責任が問われています。
そのような際に争点となるのが、その結果(自殺)は予見が可能であったのかどうか、ということのようです。つまり、たとえば加害行為があった場合、それによって自殺するということが、自殺したその人でなければ起こり得なかったような特殊なケースであるのか、あるいは、「そこまでやられたら誰だって死にたくなっても無理はない」通常のケースであるのか、ということらしいのです。今回は、原告は後者であると主張し、自衛隊側はその因果関係を否定しており、裁判所も予見可能性を否定してしまっています。
これを、今回の原発事故から引き起こされる健康被害の予見可能性という面から考えると、現状の放射線量や過去の(とくにチェルノブイリなどの)記録などから照らし合わせて、素人の私でもうすうすわかる(つまり、そうなるかもしれないと予見できる)ことは、おそらく、この先、数年経ったとき、放射能の被曝を原因とした白血病や癌などが増えるのではないかということです。
そうなったらおそらく、集団訴訟などによって、国や東京電力の責任が問われることになるでしょう。そして、その時に必ず因果関係が問われることになるはずですが、その際、「原告が癌や白血病などになることを、国は(東京電力は、原子力安全委員会は)予見し得たのかどうか」が争点になるのだろうなあ、と、集会での報告を聞きながら思いました。
癌や白血病の原因との因果関係を証明するのは、通常であれば非常に難しいのではないかと思います。しかし、今回のような場合、数年後に放射線量の高い地域に居住していた人が白血病や癌になったら、多くの人は、それが原発事故による放射性物質の拡散と因果関係があると思うでしょうし、それは、おそらくあたっている可能性がかなり高いのではないかと思います。
しかし、実際に裁判になったら、因果関係について改めて争われることになるでしょう。仮に、被告側がその責任を認めないということになると、その時には「その可能性が予見できたのかどうか」ということと、あわせて「それについて十分な措置を講じたのかどうか」が争点になってくるのではないかと想像します。(私は法律の専門家ではないので、間違っていたら指摘をお願いします。)
つまり、ポイントは、そうなるんじゃないかとわかっていたんですか、ということと、もうひとつ、じゃあ、それについてちゃんと対策をしたんですか、というおもに二点になるのではないか……。そう考えた時、今回の、原子力安全委員会の書面は、重要な意味をもつことになるのではないかと思いました。
仮に基準値を超えた地域の住民に対して必要な措置(避難を可能とさせること)を行わなかった場合、予見される結果に対して必要な措置をとらなかったということになれば、国や原子力安全委員会、東京電力な どの責任の所在は明らかになります。しかし、そこで基準値に達していなかった場合には、危険とされる基準値に達していないので、因果関係も不明であり、基 準値以下であったからには予見も困難であったので、とくに予防措置等を行う必要はなく、それを行わなかったとしても責任はない、という話しに持っていかれ るのではないでしょうか。
もちろん、こんなことは多くの人には最初からわかっていることだと思いますし、だからこそ、福島の親たちが20ミリシーベルトの撤回を求めて活動をしているのだと思います。それを私のつたない脳みそで、すとんと今後の流れと重ねて理解できたキーワードが、今日の「予見可能性」という言葉だったのでした。
福島の20ミリシーベルトを認めたら、日本全国の20ミリシーベルトを 否定する理由もなくなります。日本は小さな島です。今は他人事だと思っている地域でも、今後は徐々に、その影響が明らかになってくることでしょう。その時 にあわてても、いったん高い基準を受け入れてしまったら、なしくずしになります。そして、そのすでに非常識に高い値が、さらにそれ以上に引き上げられない という保証は、どこにもないのです。
もちろん、20ミリシーベルトを否定したからそれで終わりではないというのは明らかです。より低い値にしてそれで満足すべきではないという議論もよくわかります。
それについては引き続きやっていくとしても、しかし、責任の所在をあいまいにするようなことを、決して許してはいけないと思います。逃げないほうが悪いとか無責任とか、それはやはり、違うと思います。逃げられる環境をつくる責任が、政府には(東京電力には、原子力安全委員会には)あるはずです。
逃げないほうが悪いという論理は、壮絶ないじめにあっても、自殺する方が悪いんだという理屈と通じるところがあります。そんなにいじめられるのなら、学校をやめればよかった、会社をやめればよかった、自衛隊をやめればよかった――そういうことに話をまとめてはいけないと思います。
逃げない人が悪いのではない。逃げる環境をつくる責任は明らかに政府にあります。それが国というのものだと思います。それすらできないのでは、それは、すでに国とはいえません。
たちかぜ裁判を戦っている遺族が最後におっしゃっていました。国を相手に戦うというのはたいへんなことだ。三権分立が機能していない、と。
日本は、12年以上に渡って年間に3万人以上の人が自殺しているのに、それについて、うつ病(に気づかなかった本人や周囲)という自己責任論から一向に抜け出る気配なく、精神保健福祉中心による自殺対策を延々と続けている国です。膨大な国家予算が「本人や周囲の気づき」を促すために、毎年、費やされています。それはちょうど、「危ないと気がついて早く逃げて!」という呼びかけに、よく似ています。 そうやって、本人の自己責任にゆだねられ、結果として死にいたったら、それは「気づかなかった本人の責任」だとでもいうつもりでしょうか。
気づきや精神論では生活を変えることはできません。逃げられないには逃げられないだけの理由がある。それをなんとかすることこそが、国の役割です。福島の20ミリシーベルト問題は、国というもののあり方そのものを問う、私たちみんなの問題です。
2011年4月16日土曜日
自殺対策の政策転換の必要性について(1)
キャベツ農家の方がお亡くなりになりました。まず、ご遺族のみなさまに心よりお悔やみを申し上げます。
このことについて、一部に政治家批判の道具に使おうとする動きがあり、まさにその不謹慎さに非常に憤っています。
自殺は、なにかのプロバガンダに利用されるべきことがらではないと思います。
私たちがまず頭に置いておかなければならないのは、日本は、すでに12年以上に渡って、年間に3万人以上、つまり、毎日80人以上の方たちがが自殺によって自らの命を断っている社会であるということです。
それは、昨日までもそうだったし、今日もまたそうです。残念ながら明日もそうだと思います。そして、きちんとその事実を踏まえて対策をしていかないと、こ のような状況の中、非常に深刻な事態になっていく可能性があります。それは、政治家を叩くことによっては防ぐことはできません。今だからこそ、自殺対策を 含む政策そのものを転換しないと、このような事態は改善されないと思います。
前々から、そろそろ、日本のこれまでの自殺対策政策の失敗と政策転換の必要性を、誰かがいうべきだろうと思っていたのですが、どうもだれもいってくれる気配がないので、この際なので自分でいうことにしました。
実は前々からいいたくて喉から出かかっていたのですが、私は学者でも政治家でも政策や精神保健の専門家でもない。正直、それを証明するだけのネタも持って いない。そもそも、そういう論理的なことは、きちんと学者さんが調べて裏付け持ってきていうのが筋であろうと。まあ正直なところ、遠慮して我慢していたわ けです。
しかし、ことここに至っては、そんなことはもう、どうでもいいです。専門家が必ずあてになるわけではないということは、私は今回つくづく学びました。ですから、自分がいうべきだと思ったことをいうことにしました。
まず、私の立場と考えを明らかにします。
私は、2年前から自殺によって身近な人を亡くした遺族の支援システムをどう構築するか、という研究グループに参加しています。これは、親族などの自殺とい う、非常に危機的な出来事にあったときに、社会がその危機をどう支えていくのか、具体的な仕組みをつくることを目的とした市民有志によるグループです。
私たちの仲間には、NPO関係者や福祉関係の研究者、遺族、僧侶などが入っていますが、メンバーのうち誰が遺族でそうではないのかということは公表しない 方針です。そこを争点にしたくないことと、誰かひとりが遺族であるということを表明することによって、あの人は遺族、この人は遺族ではないという色分けを せざるをえなくなってくるからです。さらにいうと、マスコミにお涙ちょうだいのストーリーを提供したくないということもあります。マスコミは営利の企業で す。「悲しみを乗り越えて」などというストーリーには飛びつきます。売れるからです。個人的な物語をマスコミの営利追及のために提供する必要を、私たちは まったく感じていません。
それに、そういうことをしていると、社会的な仕組みになりません。私たちの目的は、突発的に起きた大きな危機に直面している人が、孤立せず、社会的に支えられる具体的な仕組みをつくることです。
これを踏まえて、以下は私・ntognの個人的な考えと主張です。(団体としての意見表明などではありません。)一度には書ききれないので、今後、時間をみつけて、少しずつ、自分の考えを書いていきます。
まず、日本の自殺対策政策は、客観的に見て成果を上げていないと思います。
今の日本の自殺対策は、啓蒙と精神保健福祉が中心です。具体的には、テレビなどを使った宣伝(例:「おとうさん、眠れてる?」)、啓発を目的としたシンポジウム等の開催、全国の傾聴ボランティア等への微々たる予算の配分などです。
そして、現在の「鬱病だから自殺する」という前提に基づく政策の方向性は、私は、間違っていると思っています。
日本の自殺対策は、政策の方向性が間違っていたということを素直に認めて、考え直し、新しい政策をつくり、そしてすみやかに実行する必要があると思います。
今までの「うつ病説」に基づいた啓蒙や傾聴、うつ病治療の促進オンリーから脱却し、経済、生活支援、労働、福祉などによる社会的な支え中心に転換し、具体的な手を打っていかないと、このような状況にあって、今後、非常に深刻なことになるのではないかと危惧しています。
「うつ病です」「だから周囲が気がついてあげれば自殺は防げます」というのは、自己責任論です。うつ病は、確かに自殺の原因のひとつであるかもしれません が、すべてではありません。一部をクローズアップすることによって、他にも必要とされる支援に目をつぶるのは、正しいやり方だとは思えません。
「自殺をするのは、本人がうつ病になったからである」→「したがってうつ病が治療されていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは医者にいって適切な治療 をしなかったからだ」→「適切な治療を本人が受けるべきだった」→「本人が気づかないなら周囲が気づいていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは気 づかなかった周囲のせいだ」→ループ、というわけですが、これは、果たして本当に正しいのでしょうか。
実際には、様々な理由が背景にあ るにも関わらず、それらの末に鬱状態になったという、いってみれば砂時計の最期のひとつぶにだけスポットライトをあてても、そこにいたった問題の解決には 結びつきません。また、仮にうつ病の治療を受けたとしても、その原因になったことがらが、自然と解消されるわけではないのです。その課題解決を含めて、社 会がいっしょにやっていくのだという方向性に自殺対策の政策転換をする必要があると思います。
なお、これから自殺がおこるたびに、おそらくメディアや政治関係者がそれを利用して自らの利益に結び付けようとする動きがありうるということを、私たち は覚悟しておかないといけません。そのような人の死を利用して自らの利益を得ようとする行為は、非常に不謹慎であり許されないことだと私は思っています。
私たちは、恣意的にメディアなどによって選ばれた年間3万件以上の中の一件を受け取っているだけで す。それは、事実の一部であるかもしれませんが、「真実」のすべてではありません。
(続く)
(2011年3月29日http://m-net.jugem.jp/に掲載したものをこちらに移動しました。)
このことについて、一部に政治家批判の道具に使おうとする動きがあり、まさにその不謹慎さに非常に憤っています。
自殺は、なにかのプロバガンダに利用されるべきことがらではないと思います。
私たちがまず頭に置いておかなければならないのは、日本は、すでに12年以上に渡って、年間に3万人以上、つまり、毎日80人以上の方たちがが自殺によって自らの命を断っている社会であるということです。
それは、昨日までもそうだったし、今日もまたそうです。残念ながら明日もそうだと思います。そして、きちんとその事実を踏まえて対策をしていかないと、こ のような状況の中、非常に深刻な事態になっていく可能性があります。それは、政治家を叩くことによっては防ぐことはできません。今だからこそ、自殺対策を 含む政策そのものを転換しないと、このような事態は改善されないと思います。
前々から、そろそろ、日本のこれまでの自殺対策政策の失敗と政策転換の必要性を、誰かがいうべきだろうと思っていたのですが、どうもだれもいってくれる気配がないので、この際なので自分でいうことにしました。
実は前々からいいたくて喉から出かかっていたのですが、私は学者でも政治家でも政策や精神保健の専門家でもない。正直、それを証明するだけのネタも持って いない。そもそも、そういう論理的なことは、きちんと学者さんが調べて裏付け持ってきていうのが筋であろうと。まあ正直なところ、遠慮して我慢していたわ けです。
しかし、ことここに至っては、そんなことはもう、どうでもいいです。専門家が必ずあてになるわけではないということは、私は今回つくづく学びました。ですから、自分がいうべきだと思ったことをいうことにしました。
まず、私の立場と考えを明らかにします。
私は、2年前から自殺によって身近な人を亡くした遺族の支援システムをどう構築するか、という研究グループに参加しています。これは、親族などの自殺とい う、非常に危機的な出来事にあったときに、社会がその危機をどう支えていくのか、具体的な仕組みをつくることを目的とした市民有志によるグループです。
私たちの仲間には、NPO関係者や福祉関係の研究者、遺族、僧侶などが入っていますが、メンバーのうち誰が遺族でそうではないのかということは公表しない 方針です。そこを争点にしたくないことと、誰かひとりが遺族であるということを表明することによって、あの人は遺族、この人は遺族ではないという色分けを せざるをえなくなってくるからです。さらにいうと、マスコミにお涙ちょうだいのストーリーを提供したくないということもあります。マスコミは営利の企業で す。「悲しみを乗り越えて」などというストーリーには飛びつきます。売れるからです。個人的な物語をマスコミの営利追及のために提供する必要を、私たちは まったく感じていません。
それに、そういうことをしていると、社会的な仕組みになりません。私たちの目的は、突発的に起きた大きな危機に直面している人が、孤立せず、社会的に支えられる具体的な仕組みをつくることです。
これを踏まえて、以下は私・ntognの個人的な考えと主張です。(団体としての意見表明などではありません。)一度には書ききれないので、今後、時間をみつけて、少しずつ、自分の考えを書いていきます。
まず、日本の自殺対策政策は、客観的に見て成果を上げていないと思います。
今の日本の自殺対策は、啓蒙と精神保健福祉が中心です。具体的には、テレビなどを使った宣伝(例:「おとうさん、眠れてる?」)、啓発を目的としたシンポジウム等の開催、全国の傾聴ボランティア等への微々たる予算の配分などです。
そして、現在の「鬱病だから自殺する」という前提に基づく政策の方向性は、私は、間違っていると思っています。
日本の自殺対策は、政策の方向性が間違っていたということを素直に認めて、考え直し、新しい政策をつくり、そしてすみやかに実行する必要があると思います。
今までの「うつ病説」に基づいた啓蒙や傾聴、うつ病治療の促進オンリーから脱却し、経済、生活支援、労働、福祉などによる社会的な支え中心に転換し、具体的な手を打っていかないと、このような状況にあって、今後、非常に深刻なことになるのではないかと危惧しています。
「うつ病です」「だから周囲が気がついてあげれば自殺は防げます」というのは、自己責任論です。うつ病は、確かに自殺の原因のひとつであるかもしれません が、すべてではありません。一部をクローズアップすることによって、他にも必要とされる支援に目をつぶるのは、正しいやり方だとは思えません。
「自殺をするのは、本人がうつ病になったからである」→「したがってうつ病が治療されていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは医者にいって適切な治療 をしなかったからだ」→「適切な治療を本人が受けるべきだった」→「本人が気づかないなら周囲が気づいていれば自殺は起こらなかった」→「自殺したのは気 づかなかった周囲のせいだ」→ループ、というわけですが、これは、果たして本当に正しいのでしょうか。
実際には、様々な理由が背景にあ るにも関わらず、それらの末に鬱状態になったという、いってみれば砂時計の最期のひとつぶにだけスポットライトをあてても、そこにいたった問題の解決には 結びつきません。また、仮にうつ病の治療を受けたとしても、その原因になったことがらが、自然と解消されるわけではないのです。その課題解決を含めて、社 会がいっしょにやっていくのだという方向性に自殺対策の政策転換をする必要があると思います。
なお、これから自殺がおこるたびに、おそらくメディアや政治関係者がそれを利用して自らの利益に結び付けようとする動きがありうるということを、私たち は覚悟しておかないといけません。そのような人の死を利用して自らの利益を得ようとする行為は、非常に不謹慎であり許されないことだと私は思っています。
私たちは、恣意的にメディアなどによって選ばれた年間3万件以上の中の一件を受け取っているだけで す。それは、事実の一部であるかもしれませんが、「真実」のすべてではありません。
(続く)
(2011年3月29日http://m-net.jugem.jp/に掲載したものをこちらに移動しました。)
グリーフワークにどう関わるか
多くの方が家族や身近な人を亡くされたことに心よりお悔やみを申し上げます。
避難所や地域に、お身内を亡くされた方がいらっしゃったときに、どう接したらいいのかわからないというボランティアの方も多いのではないか。私ごときがいうことではないが、この非常時なので勘弁していただき、個人的に感じていることを率直に書こうと思う。
まず、グリーフワーク(死の悲嘆からの立ち直り作業)は本人しかできないので、求められるまで押しつけないでほしいということ。周囲の人間が、求められも しないのに手出し口出しをするべきことがらではなく、サポートが必要な場合は、本人がその時期と種類を選ぶ権利がある。主導権は本人にあるべきであって、 周囲にはない。
話しを聴いてあげたい、少しでも気持ちが楽になるようにしてあげたいと思う気持ちは人として自然な感情の動きだと思う し、もちろん、相手が語ったら静かに聴けばよいと思うが、安易な慰めやアドバイス、理由づけ、とくに、誰かと比較して何に比べればどうだとか、余計な相槌 は不要だと思う。そういうことを言いたくなるのは、だいたい、相手のためというよりも、自分の気持ちを落ち着かせたいためだ。相手の悲嘆を前にして、それ を黙って現実のものとして受け入れることができないがために、なんとか相手の悲嘆を打ち消そうとする。しかし、身近なものを亡くして悲嘆があるのは当然の ことだ。そして、それはどんな理屈をつけられたからといって解消されるようなものではない。
また、なにがあったのか、など、とくに子どもに素人が根掘り葉掘り訊くことは危ない行為だと思う。身近な人の死などの喪失体験の共有は、専門的な技術と経験、あるいは素人レベルならそれにふさわし い信頼関係があって、はじめてできうる。記憶に蓋をする権利も、当人にはある。無理やりこじ開けるべきではない。
「メンタリスト」とい う海外ドラマで、不眠症の主人公に、睡眠薬の処方を求められた精神科医が、眠れない理由となった記憶を語らせようとするシーンがある。実は、主人公は過去 に犯罪被害によって妻子を失っているのだが、それは語ろうとせず、つくり話の記憶を語る。なぜあなたの物語を語りたくないのだと訊く精神科医に、主人公が 答える。「それは、私のものだから。」
シェアをする行為は、あくまで本人がシェアをしたい場合にのみ成り立つ。誰かの、その人だけの物語を、無理やり奪ってはならない。
(2011年3月21日http://m-net.jugem.jp/に投稿分をこちらに移動しました。)
避難所や地域に、お身内を亡くされた方がいらっしゃったときに、どう接したらいいのかわからないというボランティアの方も多いのではないか。私ごときがいうことではないが、この非常時なので勘弁していただき、個人的に感じていることを率直に書こうと思う。
まず、グリーフワーク(死の悲嘆からの立ち直り作業)は本人しかできないので、求められるまで押しつけないでほしいということ。周囲の人間が、求められも しないのに手出し口出しをするべきことがらではなく、サポートが必要な場合は、本人がその時期と種類を選ぶ権利がある。主導権は本人にあるべきであって、 周囲にはない。
話しを聴いてあげたい、少しでも気持ちが楽になるようにしてあげたいと思う気持ちは人として自然な感情の動きだと思う し、もちろん、相手が語ったら静かに聴けばよいと思うが、安易な慰めやアドバイス、理由づけ、とくに、誰かと比較して何に比べればどうだとか、余計な相槌 は不要だと思う。そういうことを言いたくなるのは、だいたい、相手のためというよりも、自分の気持ちを落ち着かせたいためだ。相手の悲嘆を前にして、それ を黙って現実のものとして受け入れることができないがために、なんとか相手の悲嘆を打ち消そうとする。しかし、身近なものを亡くして悲嘆があるのは当然の ことだ。そして、それはどんな理屈をつけられたからといって解消されるようなものではない。
また、なにがあったのか、など、とくに子どもに素人が根掘り葉掘り訊くことは危ない行為だと思う。身近な人の死などの喪失体験の共有は、専門的な技術と経験、あるいは素人レベルならそれにふさわし い信頼関係があって、はじめてできうる。記憶に蓋をする権利も、当人にはある。無理やりこじ開けるべきではない。
「メンタリスト」とい う海外ドラマで、不眠症の主人公に、睡眠薬の処方を求められた精神科医が、眠れない理由となった記憶を語らせようとするシーンがある。実は、主人公は過去 に犯罪被害によって妻子を失っているのだが、それは語ろうとせず、つくり話の記憶を語る。なぜあなたの物語を語りたくないのだと訊く精神科医に、主人公が 答える。「それは、私のものだから。」
シェアをする行為は、あくまで本人がシェアをしたい場合にのみ成り立つ。誰かの、その人だけの物語を、無理やり奪ってはならない。
(2011年3月21日http://m-net.jugem.jp/に投稿分をこちらに移動しました。)
『神の慮り(おもんばかり)』 (詩の紹介です)
大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに 謙虚さを学ぶようにと、 弱さを授かった より偉大なことができるようにと、 健康をもとめたのに より良きことができるようにと、 病弱を与えられた 幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の人々の賞讃を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 人生を楽しもうと たくさんのものを求めたのに むしろ人生を味わうようにと シンプルな生活を与えられた 求めたものは何一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられていた 私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ ニューヨーク大学病院リハビリセンターのロビーに掲げられている、ある患者さんの詩 意訳 神渡良平氏 出典:http://warafuto.com/wrafuto16.html
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