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2011年11月29日火曜日

なぜサイレント・ウォークなのか(プライベート・バージョン)

サイレント・ウォークをやることになりました。
http://silentwalk2011.blogspot.com/ 『3.11を忘れない。サイレント・ウォーク 2011』

上は一応、告知用のサイトなので、個人的なことをぐたぐたと書くのは望ましくないため、とはいっても個人的に思いがあるからこそやるわけですので、こちらに、もう少し背景や動機などを書きたいと思います。

私にとってのこのアクションのルーツは、天安門事件のときにオーストリアで参加したサイレント・デモです。友人に誘われて参加したのですが、集合場所で主催者の挨拶とオリエンテーションがあり、大声を出さない、走らない、などの注意事項の説明があったあと、参加者に白いカーネーションが渡されました。参加者はそれを持って一緒に街中を静かに行進し、大使館の前にいって、門の前に静かに顕花してその場を去りました。それは、天安門事件のときに亡くなった方を悼み、それに静かに抗議する、といった趣旨のデモでした。シュプレヒコールもなにもない静かなデモですが、抑えているからこそ強い抗議の気持ちの表現方法は、強く心に残りました。

実はそれより数年前に、オーストリアで原発建設計画が持ち上がったとき、当時の現地人の友人たちがみんな反対デモにいくことになり、じゃあ、私もいきたい、といいましたらば、お前は外国人だから下手すりゃ強制送還だからさすがにやめておけ、といわれ、断念したことがありました。それで、若い人を中心とした強い抗議活動などが功を奏し、オーストリアではその後、原発建設は中止されることとなったのです。オーストリアにはそれから30年ほど経ったいまでも、原発がありません。

今回、原発爆発のことがあったとき、しまった・・・、という後悔が強くありました。そういうコミュニティーの中で十代後半を過ごし、また日本では子育て系の地域活動などやってきたのに、そっちには頭がまわっていなかった。ミクロなところにばかり目がいっているうちに、後ろからがつんと殴られたような感じです。今までも、こんな事態にならないように、なにかの活動に参加するチャンスは日本でもいくらでもあったはずなのに、それに気がつかなかった自分の馬鹿さかげんを本当に後悔しました。

チェルノブイリの事故のときに欧州にいて、その頃の欧州の大騒ぎを身近に知っているだけに、今回の原発事故では、正直、ああ、終わった、と思いました。「終わった」というのは、文字通り、もう、ある意味で、世界は(少なくとも日本は)終わりにになってしまった、もうなにもかも遅い、手遅れだ、取り返しがつかないけれど、もうどうすることもできない、ということです。この「終わった」というのは、同じ時期にフランスに留学していた知人も同じことをいっていたので、当時の欧州での事故を身近に経験した人にはもしかしたらある程度共通した反応なのかもしれません。

その「終わった」感は、爆発した原発に、ホースで事故機に水が掛けられる映像を見たとき、決定的なものとなりました。ああ、あんな原始的な方法しかないなんて、ようは危機管理もなにもなかったんだ、ということは、これからもいきあたりばったりの対症療法の積み重ねしかないはずで、それが次の爆発に間に合わなかったら、そのときこそ、本当にもうおしまいだ、と私は思いました。


原発爆発直後から一週間くらいは、私は、自分と、息子と、みんなの(これからまもなく来るかもしれない)死を悼んで、引きこもって泣きながら過ごしました。

西に逃げた人もいましたし、私もそれは考えました。しかし、ヨーロッパの大陸のスケール感からいったら、日本はあまりにも小さすぎました。中国からの黄沙を心配する小さな国土で、その西にいるのか東にいるのかというのは、あまり意味がないように、私には思えたのです。もちろん、放射線の影響力ということからいえば、少しでも遠いに越したことはないのですが、それにしても、地震の活動期に入った日本の各地に原発があって、それがあまりにももろいものなのだ、ということを目の当たりにしては、もはや、ことここにいたっても脱原発の気配のない日本に、この先、安全な場所はないと思いました。この時期、欧州の友人からも受け入れるから逃げて来い、という連絡が頻繁に入り、それも検討したのですが、やはり経済やその他しがらみなど諸事情あって、それは無理でした。一人暮らしの独身で、というのなら別ですが、家族もちともなれば、身一つでぱっと動ける人のほうが少ないのではないでしょうか。昔、チェルノブイリの事故のときに逃げない人を、なぜ逃げないのか不思議に思ったものですが、自分が当事者になるとこういうもんなんだなあ、ということがようやくわかりました。

それで、そうやってgreefの時期にどっぷりとつかって、ある程度、腹がすわってきたので、とにかくもう、事情はどうあれ、ここにいるからには生き延びる可能性を高くするしかない、そのためには思いつくことを片っ端からやろうと思いました。なにしろ、息子や自分の命もかかっているわけですから。

それで、こういう緊急事態に、市民活動とかなんとか悠長なことをいっている余裕はないし、議員に働きかけるよりは議員になったほうが時間が短縮できると思って被選挙権を駆使したりなど、片っ端からできそうなことはしてみたのですが、それは、前提として、その「終わった」感覚があって捨て身になれたからです。原発事故は収束していない。次の爆発があったら、西も東もなく、おそらく私たちみんな、生き残るのは無理だろう、と思っていたわけですから。

その「次の爆発」が(いまのところは)ないまま、まさか半年以上ももつとは、実は思っていませんでした。ですから、当時の菅首相にしても今は病床におられる所長さんにしても、いろいろ責める人はいるのですが、とにかく私個人の感覚としては、現場放棄して逃げなかっただけでも本当に感謝したいです。誰がこんなとんでもない事態のときに責任者でいたいなどと思うでしょうか。彼らが逃げていたら、次の爆発が起きていたかもしれないし、事態はもっと悪くなっていたかもしれません。そうなったら私たちの終わりは、もっと早まっていたと、今でも私は信じています。

前置きが長くなりました。

そんなこんなで、被選挙権の駆使以外にも、いろんな団体にコンタクトしたり勉強したり、ちょっとうちには体の悪い犬がいるので遠出は無理だったのですが、近くで実施されたデモにも参加しました。

でも、デモの冒頭で各種団体のえらそうな人の挨拶があったり、プラカードや団体の横断幕や、左派の政治団体の機関紙に、あたかもその団体の活動であるかのごとくの記事が掲載されたりするとちょっと参加しているこちらとしては釈然としないわけです。別にこっちはその団体の活動に賛同して参加しているわけではなく、生き残るための脱原発、という一点で参加しているだけですから。

それに、一方的に誰かを責める気には、やっぱりなれない。自分だって今まで無関心だった。みんなも無関心だった。その結果、本当に「終わった」になってしまうかもしれない。今、誰かを責めても、もう、世界はもとには戻らない。もっともっと前に、ちゃんと考えたり行動してこなかった自分に、責任がまったくないとは、やはり私には思えませんでした。

それで、12月11日になにかやりたい、という声をかけてもらったときに、政治団体や特定の団体がらみの反対運動なら私は乗らない、そういうのではなくて、女性中心に個人の集まりでやるのならやりたい、といいました。

あと、やはり、原発だけではなく、あの日、地震の直後に、そのときたまたまいた県のNPOセンター(ぽぽら)でテレビをつけたとき、画面の中で、リアルタイムでつなみの前の道路を車が通っていく、逃げてほしいのに声が届かない、なすすべもないあのショック。そして被災地支援にいった友人を通して聞く現状の深刻さなど、やはり、直接に地震やつなみの被害を受けたり、身近な人を亡くしていなかったとしても、ある意味ではやはり残された立場である私たちみんなにとって、個々で差はあるにせよ、これがショックでないわけがないと思うし、私たちもまた、深く傷ついているのだと思います。だから、こぶしを振り上げたり、誰かを責めたり、そういうことの前に、いったんちゃんと悼むということをやらないと、先に進めないような気がしていました。

そして、脱原発派とか、推進派とか、そういうカテゴリわけではなくて、やはりそれぞれの視点が違ったり意見は対立したとしても、人類で初の、このとんでもない難問に、すべての人が初体験のぶっつけ本番で向き合っていかなければならないこの困難な時代に一緒に日本に生きていて、まあはっきりいってこの緊急事態に仲間割れしてる場合ではないのではないかと思いますし、いってみれば、日本人全員が、世界のためにもこのとんでもない課題の解決をなんとしてもしなければいけない責任のある立場なわけですから、とにかく、意見の違いは違いとして別途議論するとしても、基本は同じ方向向いて連帯しましょう、その上で、違いは違いとして冷静に議論して、みんなにとってよりよい道を地道に一緒にみつけていきましょう、というのがいいんじゃないかと思うわけです。

なので、いいたいことはそれぞれ多々あると思うのですが、それは各自でいつでもどこでも街頭演説もできるし、主張の機会は、このようなブログも含めて手段は多様にあるわけですから、それはその日はなしにしましょう、ということにしました。

これが、デモではなく、サイレント・ウォーク にしたかった、私にとっての企画にいたるまでのおおまかなプロセスと理由です。

2011年9月29日木曜日

次の投票について考える(3)ポスターについて

選挙が近付くと張り出されるあのポスター。

ブルーの背景にガッツポーズだったり、なかには職業をアピールしたいのか白衣のコスプレもどきまであって、個人的には、なにか勘違いしてるんじゃないかと感じます。

有名人や芸能人、あるいは顔の魅力だけで数千人に希求できるほどの自信があるなら別ですが、はっきりいって十人並みで無名な市民の顔など、なんのアイコンにもなりません。(顔だけで数千票も稼げるならそれはすでに有名人といえるでしょう。)

そもそも、選挙期間中は限定されている貴重な広報手段を、顔のアップと、素人が考えた「頑張ります!」みたいな他との差別化ができないようなありがちなコピーで済ませてしまうなんて、なんというもったいないことをするのでしょうか。(ちなみに、顔をアップで出さなきゃいけないなんて様式のしばりは一切ありません。)

コンサートでも展覧会でもポスターがつくられます。そこには、限られたスペースの中で、必要な情報をきちんと伝えて集客をするための工夫がされます。それが集客ツールの基本です。

では、選挙ポスターで伝えるべきことはなんでしょうか。候補者の顔に興味がある人なんて、いったいどれくらいいるのでしょう。顔を比べざるを得ないのは、顔しか出されていないからです。投票する立場から見たら、顔なんてはっきりいってどうでもいい。なにをやるつもりなのか、どういう考えなのか。それが知りたいのです。顔からそれを暗に読みとって、なんてまわりくどいことをせず、堂々と、ポスターに主張を書けばいいと思います。

ちなみに某氏の場合、顔も一応、ツイッターのアイコン程度には出しましたが、右下に申し訳程度に小さく。あとは全面、文字でした。他に考えを伝える手段がほぼ無かったからです。

それぞれの候補者が自分の主張をポスターなどでも書いていくようになれば、素通りされることがほとんどであろうあのポスターも(そのために莫大な公費が費やされるのです)、立ち止まって読んでくれる人が増え、選挙そのものにも、もっと関心がもたれるようになるのではないでしょうか。

政党などの縛りのない個人候補者だからこそ、書けることもあります。組織に属していない人は、失うものもありません。組織の縛りがないという点では、無所属の方が有利なはずです。そのくらいのアドバンテージは逆手にとりたいものです。

なお、あまり欲張って、あれも書きたい、これも書きたいと八方美人をやってしまうと、結局、政党候補者との差別化ができなくなり、埋没してしまうと思います。

欲張らず、ぶれず、自分が本当にやるべき、これだけはやりたい、できる、という「ミッション」を、ひとつきちんと打ち出している候補者の政策に共感ができたら、私は必ずその人に投票したいと思います。

20110929 ntogn

2011年9月11日日曜日

次の投票について考える(2)広報について

今日は、地震からちょうど半年の月命日です。とにかく菅さんをやめさせろ一点張りの国会の空転が、新体制でなんとか落ち着いてくれるのではないかとかすかな希望を抱き始めた矢先、就任間もなく鉢呂さんが辞任してしまいました。

日本が民主主義国だというのは錯覚だったようです。民意ではなくマスコミの気分しだいで大臣の首が飛ぶ国、日本。もちろん、そのバックにはスポンサー様のご意向があるわけです。こういうかたちの独裁というのもあったのだということを、この半年で思い知りました。独裁者が壇上に立って演説した時代はもう終わったようです。

わずか数日でマスコミが騒げば大臣が辞任という現状をみても、この先の政治情勢がいつどう急変するか、本当にわかりません。このままなんとか治まるだろう、という希望的観測に保証はついていません。その保証は「民主主義」であったはずなのですが、その保証がどうやらあてにならないようです。

さて、選挙といえば思い浮かぶのは、あのポスター。選挙近くになると、道ばたにベニアかなにかでつくられた看板が立てられて、そうこうしているうちに、いつのまにか、候補者の顔がでかでかとアップで印刷されたポスターが貼られはじめて、選挙カーががなりたてるようになって、あ、選挙なのね、と気づいたりするわけですが、実は、選挙期間中(公示から投票日まで)以外は、誰も「次の選挙に立候補しますから投票してね」とか、いってはいけないことになっているそうです。

つまり、選挙活動をしていいのは、選挙期間内だけ。普段から、もし議員になったら、こういうことをやりますっていってくれればわかりやすいんですが、それは難しいみたいです。次の選挙の準備活動は法律で禁止されているそうでして、なんだかよくわからん法律ですが、法律は法律。違反すれば公職選挙法違反です。

そんなわけで、みなさん、選挙期間中に、必死でアピールするわけなのですが、そのアピールの方法というのもまた、細かく制限がされています。

選挙期間中にすべての候補者に許されている紙ベースの広報手段は、ひとつは、新聞に掲載される選挙公報(1回だけ)、ふたつめは選挙区内で張る場所が定められたポスター掲示場へのポスターの掲示と、みっつめは、選挙管理委員会から支給される、専用のハガキ、以上です。そのほかの、ちらしとか、メモとか、メールとか、あるいはネット上での広報とか。すべてNG。ハガキも定められたハガキ以外は使ってはいけないことになっていて、枚数は定められていますし、それだって自由に配れるわけではなく、郵便局で所定の手続きを経て送らないといけません。 手渡しNGですし、友だちにお願いして、知り合いに送っておいてくれるかな?みたいなのもNG。ちらしのポスティングとか道端で配るとか、もちろんダメ。

ただし、4人以上の候補者を出している大政党であれば、本人の広報物は無理ですが、政党の広報物は選挙期間内でも配ってもいいそうです。ポスティングでもなんでもし放題。え?なんで?って・・・だって政党の政治活動ですから。べつに候補者に入れてくれっていってないし?という理屈みたいですが、友人が、これを知ってさすがにあまりに不公平だと怒ってました。

ようするに、新聞や郵便文化と無縁な若者層や、無所属の候補者には、自然、不利になるような仕組みです。メールによる広報については、今までもたびたび解禁の動きがあったようですが、そのたびにつぶされてきたようです。

そんなわけで、「もともと不利なルールのもとに戦う」戦略が、若い人や、組織と無縁な人には求められます。その限られた広報手段をどう活用していくのか。知恵を絞らないと組織には勝てません。

次回はポスターについて書きます。

ntogn

2011年9月7日水曜日

次の投票について考える(2)立候補ってどうやるの?

以下、一人称を避けて書きますので「某氏」となっているところはご想像におまかせするとして、さて、思いつくままランダムテーマで書いていくのでいきなりですが、たとえば、ある日、あなたが「議員を動かす動かすっていうけど、いっこうに動いてくれないから、この際、自分で動ける立場になったほうがもしかして話がはやくて合理的?」と思い立ったとして、じゃあ、この際、選挙も近いので立候補することにしたとします。

まず、何をすればいいのか? (この際、選挙とは何かとかネットや本で調べましょうとか、そういう手取り足取りの話は飛ばします。なお、私は政治家ではないので誰からも指導をうけたことはなく、下記はまったくの某氏流で流れだけをおおまかに説明したものです。)

まずやることは、選挙管理委員会(以下、選管と略)にいって、「立候補したいんですけど用紙ください。」といって、申込用紙に記入してハンコおして選挙管理委員会に提出することです。用紙はたしか一枚。住所とか氏名とか。某氏の正直な感想としては、あら、住民票の請求とたいして変わらないのね、といった感じです。

これは、公示までに供託金の払い込みと書類提出が間に合うならば、ぎりぎりでもできます。立候補予定者への説明会なども行われていますが、あれに出ることは、立候補の必須条件ではありません。

つまり、いくつか法律で制約をうけている被選挙権の駆使にとくに問題がなく(ふつうに暮らしている市民で自治体からお仕事もらってるとかそういうことでない限り、とくに選挙権との違いはないと思います。)、申込用紙を書いて提出し、法務局にいって供託金を払い込んできて、その払い込んだ証明書を選管に出したら、一応、手をあげたということになるわけです。実にシンプル。

その供託金なのですが、県議選なら60万円、政令指定都市の市議選は50万、その他30万円です。でも、このお金は、最低ラインの票が集まれば、返してもらえます。その最低ラインも、実はそれほどハードルが高いわけではなく(とはいえ、某氏は被選挙権の駆使にお金がかかるのは不当なことだと考えていまして、最低ラインの票数が供託金返還の条件になるということは、すなわち組織票を持っている候補は実際にはノーリスクであって、政党などに属していない組織票のない個人候補だけがリスクを背負うということになるわけで、このへんも現状の選挙制度の欠陥だと思っていますが、今はそのことを話しても仕方がないのでそこはまた後日ということで)、そこは有権者や候補者の数になんとかを掛けて、みたいな数式があるので選管にきいてもらいたいんですが、私の住んでいる県議選で1300とか。そんな程度です。

ちなみに、一人くらい投票にいかなくたって何も変わらないと思っている人いますけど、立候補する人にしてみたら大違いです。たとえば1300が最低ラインだと仮定したとします。1299票だったら、供託金は没収され、選挙の際などにポスター貼りますよね、あの印刷費も、公費、つまり税金で支給されることになっているのですが、それもNGになってしまって、供託金没収と印刷費だけで、ざっと100万近く。このリスクを背負わなければ立候補できないとなったら、もちろん、立候補する人が減りますよね。で、そういう制度になっているわけです、残念なことに。だから、投票者が少なくて票の数自体が少ないと、組織票のない候補者にはよりリスクは高くなっていくので、組織をバックにした候補者がどんどん有利になっていって、組織から自由な候補者の立候補が抑制されていく、というわけです。これでは「ろくな候補者いないし」といわれても、そうはいってもねー、って感じではないですか?

とはいえ、某氏の場合、公示の二日前の夕方に申し込んで次の日はお金払いに行ったり書類書くのに一日ついやしてしまい、結局、まったく広報という広報ができないままに公示に突入してしまい、公示に入ると、メールやネットやツイッターなど、資金不足の人にはありがたいお知らせツールが法律で禁止されているためにまったく使えず、政治家になりたいなどと思ったこともなかったので当然ながら後援会などもなく、バイトを雇うお金もないから、実質、ほぼ友人と二人だけ+ランダムに訪れた学生ボランティアのみなさんなど、だけで、それで実質、使えたのは10日くらい。それでも1135人でしたので、これ、あと一週間あれば、なんとか供託金最低ラインはなっていたのではないかと思います。(つまり、あと200程度とどかずなんともならなかったわけです。)

でも、それにしても、ネットでの広報が法律で許されていれば、もう少し、なんとかなったはずです。そこはやはり悔しいです。(というか、そもそもそんなに間近になって出るなよ、という話なのですが、今回は、実は当初はデモをやる予定だったのです。同じタイミングで、仲間が原発と震災復興について立候補者に公開質問状を出したいのでそれについて選管に訊きにいく、というところから紆余曲折あって、結果として、公開質問状とデモをとりあえず保留にして立候補にしよう、ということになったのです。もちろん、こんな非常時でもなければ某氏もそのような無謀なことはしなかったでありましょう。しかし、今、日本存続の危機、くらいのときでみんな本当にそれどこじゃないのに、どの候補者もそれについていわないで何事もなかったかのように選挙決行するということにどうしても納得がいかなかったのです。)

供託金の話でひっかかってしまいましたが、その最低ラインというのは、つまり、リスク回避の話です。最終的には、出るからには勝たないとお話にならないので、過去の選挙のデータを見ると、だいたいの当確ラインがわかるはずです。それは、あまり変動しないようなので、一応、その数をそろえて、「会議に出席する権利」を勝ち取らなければなりません。(某氏の当確ラインは8000票くらいだったようです。)

そのために、申し込みが終わったら、その次になにをするか。ということで、次回は広報について書きたいと思います。

ntogn

2011年9月3日土曜日

次の投票について考える(1)

総理大臣が変わりました。そして、何もまだ始まっていないのに、すでに外国人献金問題などで新総理を叩く動きがあり、どうも解散総選挙になにがなんでも持っていきたい人たちがいるらしく、大震災に引き続く原発の大事故の収束もないのに、その総理が誰であろうと「総理である人」の個人攻撃に膨大な時間とエネルギーを浪費するこの国の政治に、一国民として悲しく情けない気持ちです。

・・・・・・などという感傷にひたっている時間は、どうやらなさそうです。

年内に解散総選挙やりたい動きがあるという説もありますので、そうなると、年末年始の時期に選挙ってことはたぶんないので、12月初旬くらいがねらい目なのでしょうか? 逆算すると、解散して選挙準備をして、ということにどう考えても一ヶ月以上は必要だと思うので、11月くらいには解散が流れになっていないとつじつまがあわない。すると、立候補者のアテは、10月には決まってないといけないのではないでしょうか? 

ちょっと待って。とすると、もしかして、もう1ヶ月ちょいしか時間ないの?・・・・・・ということに、書き始めてみて改めて愕然とします。当然、次の選挙準備は、水面下で活発になっていることと想像します。

さて、もし、そうなってしまったら、どうするか。

総理でも議員でも首長でも、誰かがやめたら、必ず誰かがその席に座ります。総理にやめろというのなら、よりよい後継者が必要だし、首長をリコールするなら、次の首長を誰にするのか、少なくとも自分たちの中ではアテがついていないといけません。

そして、それはただの願望ではなく、実現可能でなければいけません。今回、たとえば次の総理として誰がよいかということが議論になったときに、あの人がいい、この人がいい、という意見はたしかによく見かけました。しかし、その多くは、それこそクーデターでも起きなければ実現不可能に近い、夢のような話でした。

野党の政治家を推したり、政権与党の候補者であってもさまざまな事情で現状では総理として国民が受け入れるのは到底無理であろうという政治家であったり、そもそも議員ですらない場合もありました。でも、無理なことを夢見ても仕方がないのです。もちろん、その人を総理にするためであったら命がけでクーデターを起こすことも辞さない、くらいの覚悟と用意があるのなら別ですが。

もっとも、仮に命を懸けたとしても、そういう夢は、基本、独裁政権でもない限り、すぐにかなうことはないはずです。仮に独裁政権国家であれば、武器を準備して軍隊を動かし、独裁者を引きずり下ろして議会場を占拠、指導者もすべて死刑か国外追放、利権集団は財産没収か投獄、それを実現するために法律すべてがらがらぽん、という芸当ができるかもしれません。しかし、今はフランス革命の時代ではなく、日本もそういうシステムになっていません。

ですから、今、私たちにできるのは、選挙権と被選挙権の駆使。地味ですが、これしかありません。そんなわけで、これから何回かにわたって、市民レベルで次の選挙や投票について考えてみませんか、ということを書いてみたいと思います。

まず、誰に入れるかを決めたいし、入れたい人がいなかったら、はやく探してこないと間に合わない。誰かが出てくるに違いないなんて、そんな奇跡、今まで起こったことありましたか? 黙って座っていれば理想の王子様が、お姫様が、「私を選んでください」と現れて杖を一振りして世の中を変えてくれるなんて、そんな夢物語は、この先も100%起こらないと、私は確信しています。


投票日が近くなってきてから、さてこの候補者は何を考えているのかな、などと調べ始める人がいますが、あれ、だめなんです。わかりにくい仕組みになっています。それは法律がそうなっているからなんですが、これに腹を立てて、どうせ政治家なんて自分の意見すら表明しない、だから選挙なんて誰に入れても同じなんて思ったらそれは違うと思います。

そういう、黙って待っていたら理想のお見合い相手があてがわれて、自分はイエスといえばいいだけ、なんて時代は、もう、とっくに終わりました。世の中変えたければ、自分で探しにいくしかありません。自分で探しにいくことすらしなかったくせに、実際に目の前に相手が現れると、この人はダメ、あの人はダメと文句をいう。文句をいう暇があったら立ち上がって探しにいくか、一人でやっていく決心をすればいいのです。

なお、それを書くにあたって、このブログから私の個人名を消しました。実は、この前、この非常時に選挙決行するということに心底、キレまして、県議選に立候補した経緯があるので、特定の政治家(私?私は政治家ではありません。)や選挙について言及する行為と受け取られたくないからです。

立候補を決意したのは公示の二日前の夕方。当然、なんの準備もない無謀な行為で、当然のことながら落選したのですが、おかげさまでいろいろと仕組みの裏が見えました。感想は、できるなら、もっと若い人たちがどんどん立候補すべきだし、それを応援できる機会があったらぜひやりたい、ということでした。

選挙には莫大なお金がかかる、政治家というのは特別な人がなるもの、などなど世間でいわれていることは、ウソではないかもしれませんが、真実かというと、そうでもありません。やってみてわかったのですが、選挙権の駆使と被選挙権の駆使は、基本的には、あまり変わらないことだと思います。投票にいくのと同じように、立候補も誰にでもできます。資格もいらない。学歴も経験も関係ない。試験があるわけでもない。よくも悪くも、誰でも選挙に立候補できる仕組みに、一応は、なっているのです。預けたお金も、ある程度の票が集まりさえすれば、返してもらえます。

ですから、急いで、次の選挙について知恵を絞って考えてはどうでしょう。「政治家」がダメだというのなら、政治家ではない人に、議員になってもらえばいいだけの話です。政治は政治家がやるもの、というのは、ただの思い込みです。政治家がダメだと文句をいうのではなく、市民が政治をやればいいだけの話です。たしかに投票率は低い。しかし、投票率が低いということは、いつでも結果はひっくりかえせるということでもあります。もちろん、市民が結束しさえすれば、ですが。

(つづく)

*上記は、年内に解散総選挙がある、という意味ではありません、念のため。
もしそうなってしまってもあわてないように準備しましょうね、という危機管理の話をしています。

2011年8月16日火曜日

なんのための脱原発か(「第三身分とは何か」シイエスを読みながら)

「第三身分とは何か」シイエス著を読んでいます(まだ途中です)。読みながら、頭の中の混線が解けていきます。

これは、フランス革命を目前にした時代の激動期に「世の中を変えた」名著だそうです。「上位二身分」として貴族や宗教界が、社会の富や決定権を独占していた時代に、大衆を「第三身分」として、「第三身分とは何か。すべてである。」といって、大衆こそが真の国家でありそれ以外は国民ではないという主張を展開しています。(展開しているところまでしかまだ読んでいません。)

自らの血統を「国王のために流す血」であるということでその世襲的特権の独占を正当化したことに、同じく当時の思想家であったセリエッティが「それでは、人民の血は、水だと言うのか」といった言葉を、シイエスが引用していた一文が、まずしっくりと腑に落ちました。

おかげさまでようやく、「なぜ」原発をやめなければいけないのかというループから開放されて、「なんのために」原発をやめなければいけないのかという原点が、とてもシンプルに整理されました。

なんでもそうですが、「なぜだめなのか(why )」という理由ももちろん必要なのですが、なによりも「なんのために(what for)」という目的なしには続きません。

こと、原発の廃絶などは、長い時間がかかることでしょうから、それまで自分が生きているのかもあやしいし、むしろここまで政治が混迷しているとさすがに嫌気もさしてきて、いっそ独立国でもつくるかとか、まあどうせこの先長くもないしとか、年取ってるから放射線感受性弱いよねーとか、子どもさえ海外にでも逃がせばまあいっか、とか、妊婦叩きのめしたり見張りたてて計画的に未成年集団強姦する大学生が罪逃れるような国でなにが脱原発だよとか、そんな国に執着するよりやっぱ欧州、いいよねーあーあの人に会いたいなあ・・・みたいなところに、ついつい、気持ちが逃げたがります。

でも、違う違う。そういうことじゃなかったのでした。やっぱり原発はやめないといけません。それは、自分が逃げるか逃げないかっていうこととぜんぜん関係なく。

私は、なんのために原発を否定しなければならないのか。

それは、私と同じ、私の息子と同じ、私の愛する誰かと同じ、一人の人間である誰かが、金の力をもって、命をけずる原発の清掃作業や事故処理に携わることなく原発を運転しつづけることは実際に不可能であって、つまり、原発の運転をたとえ消極的にでも容認するということは、私は、自らの安楽(たとえば日本の経済とか自分の仕事とか夏のエアコンとか)のために、誰か(それは、広い意味で私の息子でもあり愛する人であり)を、ゆっくりと、痛みと苦しみのなかで死んでいく道に追いやっているということに他ならないわけで、私は、それを絶対に、容認してはいけないからです。

それは、見知らぬ誰かではない、と私は思います。それは、見知らぬ誰かでもあるけれど、同時に私の息子でもある。そこにはなんら変わるものはないと思います。だから、原発で作業をしている人を思うとき、どこかの見知らぬ労働者ではなく、自分の身近な誰かを思い浮かべてそのうえでそれをやらせていいのか、そんなことをやらせなければ成り立たないような世の中で、それに加担して生きている自分で本当にいいのかを自らに問わないと、それは、どこか人として、嘘があると思います。

私は、私の息子が、原発で被曝して、長い時間をかけて体が蝕まれて、痛みと苦しみの中で死んでいくくらいだったら、まさに、自分が死んだほうがましです。それは、息子ではないかもしれませんが息子かも知れないし、私が死んでしまったずっと後に、それは私の孫かもしれない。そもそも血縁であるか、その人を知っているかどうかということは、重要な問題ではありません。自分の息子がやられて耐えられない残酷なことを、どうして他人なら容認できるのでしょうか。

つまり、私は、自分が被害者になるかもしれないから(線量が高いから、事故機から距離が近いから)、原発を止めなければいけないのではない。もちろん、それも怖いです。しかし、なによりも、ゆっくりとした目に見えない虐待とその末の殺人、人の命の重さを金で買って天秤にかける世の中の仕組みに組み込まれている自分をなんとかしないと、私は、自分の人生のつじつまがどうしてもあわない。

原発事故が収束しようと、線量が高かろうと低かろうと、日本の総理大臣が誰になろうと、たとえ日本という国そのものが存続しようとしまいと、自らが影響を受ける地域にいようといまいと、年をとって放射線の影響が現れるより前に死ぬことが明らかであろうと、たとえ海外に移住したとしても、逃げられても、逃げられなくても、その殺人の加害者になることを、私は生涯を通じて拒否し続けなければ、もう、生きることができません。それを見ないで(知らないで、知ろうとしないで)今まで生きてきてしまったわけですが、見えたらもう、さすがにこれ以上は無理です。

そこを中心に置いたら、あらゆる詭弁がどれほどばかげていることか。
海外か西日本に逃げればいいじゃないかとか、線量はそれほど高くないとか、直ちに健康に影響はないとか経済も大切だとか次の原発は安全だとか数学的な確率だとか。

どこに逃げたって、経済が回ったって、半減期になったって、毒を排出する魔法の薬が発明されたって、確率が五億分の一だって、その、愛する誰かを緩慢な死に追いやっている加害者でありつづけようとする自分から逃れることはできません。

原発のことは、人権のことだと思います。

誰かのほっぺたを金でたたいて毒の海にみんなで黙って突き落とす。自分は安全な場所にいる。あまり不愉快なものは見たくないので見ないようにしておく。その人が使えなくなったら、次の人を見つけてくる。自分がそれをやりたくないから、金(電気代)を払って、見知らぬ誰かに見えないところでやってもらう。金があるからいくらでも後釜はみつかります。そしてその人が使い物にならなくなったら捨てて次の人を配置します。それを、未来永劫やっていく。それが原発を推進したり、容認することであると、私は理解しています。時系列で考えれば、それはもちろん、今の自分たちの安楽のために、未来の子どもたちを犠牲にする行為です。そんなことが許されるわけがありません。

原発事故以来、カタカナの専門用語とか、ゼロが並んだ数字とか、安全なのかそうじゃないのかで声の大きさを競っている学者や政治家の攻防、マスコミの利権バイアスかかりまくりの放送(もう「報道」という言葉を使うのはさすがにやめました。)、チェルノブイリではどうだったかとか、気にしすぎのモンペアだとか、8月大地震説とか、EM菌とか波動とか、エキセントリックというよりも、むしろ子どもの喧嘩の台詞みたいな政治家たたきで、原発爆発したって放射性物質拡散したって、なんだ、普通に生活できてるし電気足りてるじゃん、たいしたことなかったわ、みたいな詭弁とか。

そういうことじゃない。

私たちには、自分と同じ誰かを、金の力で自分の手も汚さずに殺す権利なんてないし、たとえそんな権利を国が与えたとしても(今のところはそれに無理やり加担させられているわけですが)、それに甘んじていいはずがありません。

国なんて、最終的にはどうでもいい。地球上の多くの国が、生まれて、消えていきました。日本だって国が統一されたのはそれほど昔のことではありませんし、長い歴史の流れからみたら、今の状態だって過渡期なのかもしれません。

そんなことよりもなによりも、私たちは、やっぱり、殺してはいけない。

原発からの距離にも年齢にも線量にも事故の収束の度合いにも政治のどたばたにも政権にもまったく関係なく、私は、いつまでも、原発という集金装置を通した殺人への加担を拒否していきますし、それを達成するための仲間を求め続けます。

つまり、「脱原発のWhat for」 は、被害者になりたくない自分を守るためではなく、愛する人と同じ存在である誰かを殺すことをやめるためであったことを、昨日、この本を読み始めて、改めて思いだしたのでした。


og 20110816


2011年8月7日日曜日

よりよい食べ物をめぐる葛藤

秋の収穫シーズンが近づきました。

3.11の地震に引き続く原発事故の後、一時期、食料が一部、確保困難な時期があり、その後も、スーパーに行くたびに、ここに並んでいるものを、誰かと奪い合わなければならない恐怖が頭から離れず、買物にいくとよく、棚にものがなくなった風景を想像してしたりして暗澹たる気持ちになっていました。

その気持ちのなかには、たんに食料が入手しづらくなるのが怖いという以外に、なにかもっと奥底にある恐怖感があるようです。それがどこからきているのか、自分でもよくわからなかったのですが、その感覚を獲得した瞬間というか、ルーツが、先日、わかりました。

百貨店の食料品売り場で清涼飲料コーナーで海外ブランドの100%ジュースの瓶を見たとたんに、30年前のある日の記憶がフラッシュバックしたのです。

当時、音楽学生としてオーストリアのウィーンに留学中だった私は、当時まだ東西で別れていた旧東ドイツのライプツィヒで音楽コンクールがあったので、参加者として出かけていきました。

30年前の東と西の格差は大きく、経済的にも段違いで、シェパードを従えて機関銃を持った警備兵で厳重に警戒されている国境を越えて東ドイツに移動すると、そこは、食べ物も違う、空気も違う(排気ガスの規制などが違ったのだと思います)、売られているものも違う(そもそも食料があまり売られていない慢性的な物不足の)、別世界でした。

野菜なども乏しくて、一週間くらいいただけで、飢餓感がつのってきます。食べ物の量は足りていても栄養が偏っていたせいだと思います。果物とか、野菜とか、そういうものが恋しくなりました。
それで、免税店にいくことにしました。町には売られていなくても、外国人だけがパスポートを示して入店を許されるその店には、チョコレートでも、100%の果物のジュースでも、なんでもそろっているのです。外貨獲得策で、お金(外貨)を出せば、いくら物不足の国でも、ある程度は自由にものが買えるというわけです。

当時、社会問題に関心が無かった私は、とくに疑問も持たず、免税店で『グラニーニ』ブランドの100%オレンジジュースを買って、ジュースの瓶を裸のままで手に持って、伴奏者と一緒に、近くの公園に向かいました。

そのとき、公園で噴水に向かう道すがら、先生に引率されたおそらく小学校低学年くらいの子どもたちの一行とすれ違ったのですが、その子どもたちがこちらを指差して、口々に「グラニーニ、グラニーニ!」といったのです。

一瞬、なにをいわれているのかわからなかったのですが、すぐにそのジュースが当時の東では珍しい高級品であることや、そういったものが現地の人たちには入手できないものなのだということに思い当たりました。

それに気づいたときの気まずさ、罪悪感。恥ずかしさ。ああ、こういう子どもたちの手からよりよい食べ物を奪いながら日々栄養足りてる自分。たかだか10日くらいも我慢できずに免税店で100%ジュースを買わずにいられない自分の弱さと情けなさ。そして数日後にはまた西に戻って、豊富な食べ物を買い放題の生活に戻るというこの格差と傲慢。

当時、まだ十代で、日本と欧州しか知らず、他より優れることしか頭になく、学生寮の地下にこもって1日に6時間から8時間もひたすら練習ばかりしていた私が、はじめて社会の中で、他のより弱い人から日々、あらゆるものを奪い続けて生きている自分を、実体験によって自覚した瞬間でありました。

その記憶は風化することなく30年も持ち越されてきて、それが、スーパーで海外ブランドの100%のジュースを目にした瞬間にフラッシュバックしたのです。

うろたえた私は、そのまま何も買わずにその場を去りました。

これから、より安全な食べ物をどう確保していくのかは、頭の痛い問題です。
誰だって、より安全で体によい食べ物を食べたい。私もそうですし、子どもに食べさせるときにはなおのことです。

そこで、自分たちの安全を確保したいという本能と、どのようにして、安全な食べ物をシェアしていくのかの折り合いをつけていくのかは、早めに考えて、本当に草の根レベルで小さなことから対策していかなければいけない問題だと思います。

それはたんに、安全な食べ物を確保するだけでは足りないと思います。それだけに任せてしまったら、ただの弱肉強食です。経済力と体力と、数の勝負になっていきます。より経済力のあるもの、より体力のあるもの、より健康なものが、必ず勝ちます。

しかしその競争に勝つことが無条件によいとは、やはり信じることができずにいます。

自分が安全な食べ物を得ることは、隣人から安全な食べ物を奪う行為と無関係では済まされません。だからといってじゃあ自分が犠牲になりますけっこうですというほど達観できているわけではないのですが、できうるならばやはり、できる限り分け合っていく仕組みをどうやってつくれるのかという悩みや痛みは捨てたくないのです。

具体的には共同購入とか、地域の生産者と連携してどうやってより安全な食べ物を確保するのかの方法を試みるとか、周辺でもいろいろな動きがありますし、自分自身もあがいています。

何が正しいのかは、まだわかりません。選択肢があるということは、正しい答えはないということなのではないかと思いますから、たぶん、間違えたこともたくさんやることになるとは思いますが、それでもなにもやらないでパワーゲームに任せるよりはマシなのではないかと思ったりします。日々、葛藤ではありますが。

これから収穫シーズンを向かえて汚染が明らかになってきたら、状況は厳しくなってくる可能性があります。そういう状況であればこそ、できそうなことは試みること、他者に働きかけること、排除しないこと、できるだけ対立せずに対話していくこと、情報を共有すること、できるだけ分け合いながら自分や子どもを含めたみんなにとってよりよい道をみんなで探していくこと。そういうことを諦めたくないと、改めて今、思っています。

20110807 og